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「晴れの日も雨の日も」 #114 11月は命日月間

どういう訳か、11月は特筆すべき人の命日が集中している。

まず、昨日21日は亡父の29回目の命日だ。
大正13年生まれ。享年69。丹波の百姓の家に生まれ太平洋戦争にも従軍している。行政書士で身を立てた。温和な人で、私のようなキャーとかピーとか騒ぎ回っている人間とはかなり異なる。
その時代の田舎の人らしく、「始末する」というのが金科玉条だった。そのケチくさい感じがイヤだったし、家から早く出たくてしょうがなかった。が、私の物言いとか仕草が時にオヤジそっくりだと細君が言う。オソルベシDNAが流れているのだろう。
私が大学に入った時、就職した時は大変喜んでくれた。
お盆と11月には欠かさず墓参りに行っている(除く在インドネシア時代)。

続いては、月の頭から順に見ていく。

まず1日はまっちん。
組合の東京支部長の任にあった時、彼女は本部の婦人部長だった。よく気があって色んな話をした。その後彼女は結婚して北海道に行ったのだが、若くして事故で亡くなった。彼女との間に色めいたことはなかったが、心通い合う友人だった。残念で信じられない思いだった。

次いで5日。大学水泳部の2年下のH君。
この学年の主将をしていた。川谷拓三似のオモロイやつだった。
大学4回生の冬、就職が内定した私はフランス語の単位が未習得で、最後の切り札として、彼に代理試験を受けてもらい卒業した(もちろんご法度行為。もう時効だろう)。いわば大恩人である。新婚社宅にもカニ缶を持って遊びに来てくれた。残念ながら40半ばで急逝した。葬儀には水泳部メンバーが数多く集まり、献杯と称して昼間から一献傾けた。

7日は「新才のおばちゃん」。
オフクロの姉で、「新才」はその土地の名前だ。私は幼少の頃、このおばちゃんの家で養育してもらった時期がある。人生の知恵が詰まったような人だった。世間の渡り方を考える上で、若い頃ずいぶん影響を受けた。今はあまり意識していないが、たぶん根っこのところに残っているのだろうと思う。

続いて10日はぶっちゃん。
会社の16年先輩で6人の恩師の一人だ。関東の有名私学の応援団長出身で、客先への気遣いに優れ、人の気をそらさない人気者だった。
私が22歳で営業部に配属になった時、隣の課の課長をされていた。その頃の私は学生気分の延長で、うるさい跳ね返りだった。コワモテのぶっちゃんはそれをを苦々しく見ておられ、「おはようございます」の挨拶も黙殺された。数年たって「ながいも一応ちゃんと仕事しとるみたいや」となってからようやく話ができるようになった。
以降はまさに親分子分の関係で、ぶっちゃんを担ぎ出して職場の花見会を開催したり、地方巡業の珍道中をしたことを思い出す。ぶっちゃんから学び、真似し、盗んだことは数しれない。
インドネシアに行っている間に病に倒れられ、再会叶わず旅立たれた。お見舞いのお手紙をお届けするのが精一杯だったことは少々心残りだ。

12日は「多利のおいちゃん」。
オヤジの兄だ。穏やかな人だった。この奥さんも今年9月に98歳で亡くなられた。毎年今頃に自分の田んぼで採れた新米を送って頂いていた。ありがたい話だ。

最後、17日はいっちゃんだ。
組合の大御所で、本来私がご厚誼を結べるような方ではない。雲の上の存在だ。幸い、いっちゃんをよく知る心友の関係もあり、親しくさせて頂いた。男が惚れる男だった。いっちゃんに会うときは背筋が伸びる思いだった。実にカッコよくて、オレもあんなふうになりたいと思った。背広はダブル、とこだわりだしたのは、この先輩の影響だ。ご闘病中にはお見舞いに行ったり、手紙を書いてお渡ししたりした。感謝の気持が伝わっただろうか。6人の恩師の一人。


いろんな人にお世話になって、たくさんのことを吸収して今の私がある。その中でも特に濃い方の命日が11月に集中している。今度は私がいろんな人にできるだけのことをご恩送りで届けられたらと思っている。

ウォーキングルートの柿の木。以前、実家にも柿の木があり、
オヤジが元気な頃はよく送ってくれたことを思い出す。

本日11月22日は「いい夫婦の日」。
みなさん、佳き日をお迎え下さい。
ウチ?ウチは、まあ、それなりに。。。。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之  
仕事のご連絡・ご相談・その他はこちらに→nagaib61s83@gmail.com

<予告>
#115 どっちやねん
#116 腕は上がったのか
#117 12月は誕生日月間

(続く)


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