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「晴れの日も雨の日も」 #6 臨時号外 多様性の受容


「多様性」、「受容」難しそうな漢字を並べてしまいスミマセン。
平たく言うと「いろんな価値観やさまざまな在り方を認めませんか」と言う事である。これはコーチングの精神とも深く関わる。いずれ書きたいと思っていたテーマだ。が、事態は急展開、「いずれ」なんて呑気に構えていられなくなった。

一つは「定年のおっちゃんねる」さん<自称じーじさん>のnoteとの出会いだ。ご縁があってじーじさんの全17編の力作「日米の成長力格差を考える」にたどり着いた。大きなテーマをわかりやすく書かれていて瞠目した。「日本人は島国根性・村八分文化で多様性に不寛容。こうした同一性圧力が突出したものを許さず、GAFAMに代表されるようなイノベーションの創出を阻んでいるのではないか。みんな足を揃えてコツコツ改善活動に取り組むのは得意だが、次の世代はこれではいけないのではないか」というのが論旨の骨格だ。同じような年格好でビジネス経験を積んできた私もこれに深くagreeである。で、これに触発されて「多様性の受容」と言うテーマを自分の中で掘り下げている最中に痛ましい事件が起きた。

京王線で起きた殺傷事件である。とんでもない事件だし、職場での昼食時の話題にも上った。「死刑になりたいんやったら自分一人で勝手に死んだらええねん」「そうやそうや」。その場はこんな会話で終わったのだが、じーじさんに触発されたおかげでこの事件についても視点が変わった。


この「多様性の受容」であるが、近年例えばジェンダーの問題や昭和オヤジの弊害(悲しい言葉。。😭)などからしばしば取り上げられている。今般の衆議院選挙、最高裁の国民審査でも夫婦別姓、LGBTの問題からスポットライトが当たったりした。思うに、このテーマには大きく分けて3つの切り口があるような気がする。
①全ての人がそれぞれの人生を気持ちよく生きられるように 
②一つの価値観に凝り固まっていたのでは発展性がない。
 いろんな価値観の融合により新たなものを生み出そう 
③じーじさんの論点;多様性を排除することが突出したイノベーションの
 誕生を阻害している
 だ。

まず①については、私は比較的最近、4年ほどインドネシアで暮らした。その経験と合わせ考えたい。
インドネシア国は多様な民族・人種で構成されており、言語も共通言語であるインドネシア語のほかにたくさんの方言がある。そういうことに折り合いをつけながらみんな仲良くやっていこうよというのが国是のひとつ。国民の80%以上がイスラム教信者で、神の前では平等という精神であることも大きいだろう。
貧富の差も大きいが、富めるものは「喜捨」という寄付が求められ、貧しい人も生きていけるようになっている。
最近はイスラム教が政治の道具に使われる傾向が強まり、イスラム以外の宗教に厳しくなる動きが広がりつつあるが、概ね、
いろんな立場や価値観の違いがあることを受け入れてみんなで仲良くやっていこうよ
というお国柄だ。
弱者に優しい、落ちこぼれたり生きていけなくなる人を生み出しにくい文化と言っても良い。
多くの国民は豊かではないので、かっぱらい等の経済犯罪はザラにあるが、今回の京王線事件のようないわば訳のわからん事件はまず起きない。子供の虐待死も考えられない。
翻ってわが日本は島国根性の単一民族で、一つの価値観が全体を支配する文化が濃厚だ。じーじさんのご指摘でもあるが、インターネットやSNSが普及したおかげで、近い考えの人が結託し違う考えの人を徹底的に攻撃する風潮も高まってきた。もともとマスコミが「水に落ちた犬を棒で叩く」ようなことをしていたのだが、これら便利なオモチャのおかげで誰もがそうしたことができるようになった。
自分と同じ価値観の人同士でツルむのは楽だし気持ちがいいのだが、我々はそうした快適さと引き換えに除外者を生んでいるのだ。そうして除外されたものは行き場がなくなり、それが高じると今度のような事件を暴発させる。テロ組織が社会に不満をもったり抑圧されたりしている人々をテロの仲間に引き込んでいくのと同じことが、自然発生的に起きていると言えるかもしれない。
京王線事件を端緒として鉄道の安全確保が検討されているようだが、それが間違いだとか不要だとかいう気は毛頭ないが、それだけではこの種事件の最発は防げないという気がする。今回の事件の犯人が罪人であるのは間違いない。そこは問答無用だ。私も彼を庇うつもりはない。
が、我々自身が今回の犯人のような人を生み出しているのではという認識がいるのではないか、例えば「多様性の受容」という言葉を切り口にしてもっと深く物事を見つめる必要があるように思えてならない。

次に②である。私の親会社は世界40か国に300を超える拠点を持つグローバル企業。ダイバーシティという言葉は10年ほど前から社内共通の掛け声だ。これはいろんな国の文化を尊重しながら、でも一つの大きな企業集団として一体感を持ってやっていこうというのが一丁目一番地。さらに最近では、正解が分かりにくくなってきている状況下、或いはたった一つの正解なんてないのかもしれないという状況下、一つの価値観に立脚しているというのは、その価値観の束縛を受けているということかもしれず、いろんな価値観を掛け合わせて新しいvalueを創造したいという狙いもあるように見受けている。


最後に③だが、じーじさんは上記の論調と合わせ、すぐには変わりようがない日本の実情も当然よく認識されており、次世代に期待をされている。明治維新が若者たちによって行われたことと照らし合わせ、彼らに維新パート2を期待されておられる感じだ。
日本は昭和オヤジのもっと前の江戸時代とか、さらにその昔からひとつの価値観に強く支配される文化でやってきた。隣組のようにそれから外れようとする人間を監視していた時代さえある(習政権下の中国は厳しい監視社会のようですが)。多数派対少数派どころか、いわば一人の落後者も許さない護送船団方式が日本の原型であり、ちょっとやそっとじゃこれは変わらん、だけど昭和オヤジがみんなこの世からいなくなった頃には何とかならんか?ということだ。これについても私も同意見だ。

ただ、期待しているだけでいいのか、何か私にできることはないのかという思いが私には強い。
明治維新に擬えるなら、志士たちの多くは松下村塾から巣立っていった。私は吉田松陰ほど優れた若しくは純粋なオトコではないが、何か彼らのためになれることはないのかと思う。イヤイヤ、何もせんといてくれ、それが一番若者たちのためになることや、邪魔せんといてくれ、と言われそうな気もする。でも、コーチングマインドを活用すれば、彼らと彼らの意思を尊重しつつ、邪魔にならずに、彼らの微力になれる道がないだろうかと夢想している。


苦しい局面を打開するのは個人の突破力である、というのは往々にして真実である。そういう突破力のある人間に出てきてほしいと思う。最近松山英樹選手や大谷翔平選手のようにスポーツの世界では極めて突出したプレイヤーが表れ始めている。彼らはどんどん日本を飛び出していっている。それはより大きな舞台を求めてということが最初の原動力だが、ずっと日本にいたままではいろんなことに押しつぶされ結果的にあそこまでいけなかった可能性も少なくないような気がする。

いろんな価値観を認める社会の方が、人々が自由になり、とんでもない発想を持った人間が世に出てきやすい。そんな世の中を(後世で)作るために私はどうしたらいいのか、誰とどんな活動ができるのか、じーじさんから頂いたこの問いを胸の中で温めながら歩いていきたいと思う。


今回も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♫
                        長井克之
                                                                           nagairb21@jcom.zaq.ne.jp

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