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分かりやすいは結構危険

こんばんは,長濱由成です.今日は挨拶簡潔に.

というか,noteの1記事辺りの情報量を増やしてみようかなと考えている.その情報量というのは何もただ歴史の知識をひけらかしたり,予備知識を網羅するような参考書を書き記すわけではない.どっちかというと,僕が1秒もnoteを書く手を止めないまま思考のプロセスをただ垂れ流しにしてみようかなと思っている

これをすると一個懸念点は確実に存在している.それは「これまでと比にならないくらい分かりにくい」ことだ.これまでは必ずテーマを決めたりオチをきちんと用意してnoteを書いていた.もちろん即席ではあるものの,その記事を読めば2秒後には行動に起こせるような記事を書いてきたつもりだ.ただ,ここ最近対話型鑑賞をやったり色々なことに挑戦していく中で「本当にこの思考プロセスのままで良いのか」と感じてきている.

AIについて盛り上がっていた数日前の自分に言うのならば,「お前は意外と自然,言い換えるとnaturalが好きだから機械はあまり好きじゃないかもよ」って.けど,じゃあnaturalってどう定義すればいいんだろうと考えるとこれが難しい.例えば,AIなんかは人のこれまでのデータから特徴量だけを抜き取ってねるねるねるねした結果,今のアウトプットをしている.特徴量だけ抜き取ると,統計的に多い部分,言い換えると最頻値の部分が抜き取られやすいのだからある意味で平均的な人間がAIに近しい存在となる.とすると,AIが出す回答というのは非常に普遍的であるとともに人間らしい.さらに言うと,一般的な人間に近いのだからある意味でnaturalである.

ただ,このnaturalは私の考えているnaturalと同義なのだろうか.僕が考えているnaturalはある意味でスッピン(ノーメイク)であり,コスプレでないただの人だ.ただこの境界線も結構難しくて,スッピンの場合加工しないという状態だからなんとなくnaturalなのはわかるが,コスプレはあまり説明できない.だって極端に言えば「服を着ない」ことが自然でありnaturalだ.けど,それは僕の中で違う.僕がこの際に考えているnaturalは集団社会の衣食住の中で平凡な,何も着飾っていないような様子と言える.

ただ,これは先ほどのスッピンに対して「じゃあ,バレない程度の薄いメイクならいいのか」という話になってくる.確かにそう聞かれると「うん,それならいいね」って思う.で,ここで少しまとめると要するに僕は,自分がその人のこと(部分や特徴)をエラー(異変)だと認識しなければ,嫌悪感を抱かないnaturalな状態と認識するのだろう.

けど,この定義って結構雑である.なぜなら僕のその時の感情や価値観,考えによってすべての解が変更されるからだ.こんな定義は数学上では決して許されない.そんなことをすれば連立方程式も三角形も何も描けなくなる.ただ,ある意味で自分の中の落としどころとしては正解かもしれない.なぜなら,人間は計算機であると考えられる一方で,人間の機嫌やテンションや好き嫌いは常に固定化されないからである.女子が「いま好きな人が私のタイプです」と言うように,僕がnoteを書きたいと思う日もあれば今日は嫌だなと思う日があるように.人間というのは常に一義に固まった行動をとらないのだと言える.だとすると,人間を理解しようとするのは根本的に不可能である.なぜなら毎日,毎分,毎秒状態が変化するのだからそれは自然の進化であり変化である.この際の自然はnaturalではなくnatureだ.ダーウィンが進化論を提唱したように生物は常に進化している.人間の進化のスピードが遅すぎるだけで,ほかの種は日々進化している.AIとか機械学習とかまさにそうだ.いつ彼らが心を持ち,いつ彼らがチューリングテストを突破し,いつ彼らが人間の上位互換となるのか.

ただし,そんな機械たちの思考プロセスというのはほぼブラックボックスである.言い換えると,なんも分からん状態だ.よくAIや機械に対して「ブラックボックスはまずい!」と警鐘を鳴らしたり怖がっている知識人や大衆が存在するが,そんなことを言い出したら人間が考えていることもブラックボックスではないか.人類をロボットが支配するとかいう前に,あなたの隣に居る奴があんたを刺す可能性の方が現時点ではよっぽど高い.それに,ロボットに銃や武器や兵器を渡すかどうかは人間の裁量であり,いくらロボットと言えど地球上に存在する材料や素材でしか武器を作れないのだからその点は人間とフェアである.とすると,彼らが危惧しているようなターミネーターの世界はおそらく来ない.なぜならそれ以前に地球上の重要な資源は機械の下等種族である人間が既に取り尽しているからだ.ロボットが石油を掘ろうとする際には既に地球上には存在しない.だって,自立したロボットという存在に取られるくらいなら自分が取ったほうが利益を独占できるのだから.超潔白で清らかな心を持った僕ですらこう思うのだからおそらく悪い人たちも同じように考えるに違いない.

ここまでの話をずっと聞いていて皆さんが感じることは「んー,わからん」とか「読むのめんどくさい」とかだろう.ただ,分かりやすいってことが結構危険であるというのも認識する必要があるかもしれない.分かりやすいという事は既に存在した情報を誰かが理解しやすいように編集して再配置しているからだ.その時点でその情報には編集者の色が付いている.したがって,本当の意味で正確な情報は存在しないことになる.もちろんその流れで学問はきちんと形づけられてきたのだから良いのかもしれないが,分かりやすいという事はその編集者に軽く洗脳されたりしていることと同義かもしれない.

そんなことを考え始めたら「真実」とは何かとか「正義」とは何かとか非常に哲学チックな話になってくる.哲学というのは一見小難しく言葉遊びをしているだけの大喜利大会のように思うかもしれないが,結局のところ哲学者が行っているのは世界を言語化するだけでなく自分の考えを深いものに落とし込むことを体現することである.スゴイごちゃついた言い方をしているがここはあえて修正をかけない.僕が「要するに」とまとめたりした時点でその情報にあなたが触れた価値は半減する.原文のままに,あなたの根源の心のままにその文脈や発言,動作の意味を考えてみる.今日のタイトルになぜ僕が分かりやすいは結構危険だと書いたのか.なぜ僕は怖いと書かずに危険と書いたのか.理解しやすいという表現だとなぜダメなのか.こんな感じで自分と世界に疑問符を打ち続けるといずれ道路を歩けなくなると僕の近しい人が言ってたのでいつか僕は引きこもったりするんだろうなと思っている.でも,その世界観って太宰治とかの文豪っぽくて悪くない.ただ愛人作ったり自殺したりする気は現時点で1ミリもないことは断っておく必要があるかもしれない.この点だけは分かりやすくても良いのだろう.

今日はそろそろ3000字に届きそうだからこの辺で.こんな感じで書くと読むの大変な分,人の思考パターンが分かりやすいからある意味で良いのかもしれないな.

では,また.(2964文字)


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