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ゆるキャラのゆるキャラによるゆるキャラのためのゆるキャラ社会

こんばんは,大量のスケジュールとタスクによって忙殺されている長濱です.いつか死ぬんじゃないかな~と思ってます,と落合陽一みたいなことを言って今日も始める.

昨日からnoteの書き方を変えてみた.普段は何か一つをテーマを決めてそれに沿った話をするようにしているが,その書き方だと一個マズイことがある.それは僕の骨子となる考え方が伝わらなかったり,文字が不自然に受け取られることだ.いわゆる「文脈の読めない人たち」を相手にするデザイン設計がなされていないともいえる.普段の書き方だと僕が伝えたいメッセージを伝わりやすい形で再編集し並べ替えている.それは本来の僕の脳内で行われている情報処理と再構築の流れとは違うことが多い.例え話から思いついて本質を見つけたのにもかかわらず,書く際にいきなり例え話から入ると伝わる訳がない.

毎日noteに3000文字,今日で79日目くらいらしいが,それだけ書いていると文章が伝わっている時と伝わっていない時の差が分かってくる.大抵インパクトの強い主張やタイトルをつけると読者はそこにしか目がいかないので僕の本当に伝えたかったメッセージが伝わることはほぼない.安倍さんの記事を書いたときがまさにそうだ.あの記事で僕が言いたいのは「安倍さんの葬儀にここまで話し合っている暇があるならほかの事を考えろよ」であり,「安倍さんの葬儀に賛成」と言っているわけではない.

こんなことを言うと怒られるかもしれないが,どうしてこうも文脈を読み取ってくれない人が多いのだろうか.と他責思考になりたくなるのだがそこで僕が読者の皆さんに投げやりで責任をなすりつければ楽ではあるものの成長は一ミリもない.安倍さんの話に戻ると,自分の書き方がまずかったのではないかや書いた時期がよくなかったのではないかなど自責の可能性は十分にある.今まで他責思考で生きてきた自分を正すにはnote執筆というのが最高の場所なのかもしれない

noteという環境は面白い.こんな感じの雑多な文を書き連ねてもハートマークを押してくれる.逆に,有益な情報を書いたって特に押されないことも多い.これを考えるとnoteに求められている能力や得点はおそらく「学んだ感」とか「良い感じに読んだ感」であり実際の情報量は特に求められていない.それに気づいた僕はこうして今日も思考の流れをただ垂れ流しにして世間に発表し続けている.

でも,こうやって書く手を1秒も止めないと僕の脳内をあなたが再生することは実は非常に簡単である.例えばここまで書いてきた1000文字をあなたが完璧に理解すれば僕の脳内と同じような雰囲気で書くことはおそらく余裕だろう.と,意味の分からないことが書かれていてもなんとなく「面白かったな」と認識できるのが人間の素晴らしい所であり感動できる

人間というのは非常に不完全である.よくアニメの考察とかそれこそ小説の解説とか色々書かれているがそこまで果たして製作者が考えているかは微妙である.もちろん製作者はその道のプロであることが多い(今後は減るだろうが)のだから考え抜かれた演出とか伏線が多々あるはずだ.それに最後までバレないもしくは気づかれないことも多いにあるだろう.ただ,毎日3000文字書いている僕が思うに,そこまで考えていない場合も結構あるんじゃねと感じる.

以前,対話型鑑賞を行った際に僕は参加してくれている人に向かって作品の狙いや作者の意図について一瞬問うてしまった.しかし,これはクリエイター側の僕からすればあり得ない.それは作者の意図を読み解くことに意味がないとかそんな行為はできない,難しいという話でもない.結局のところ,作家の真意なんか1ミリも理解できないし,作っていて如実に感じるのは「そんなに意図なんかない」ってことだ.どんな芸術だろうがどんな数学の証明だろうがその時の運やタイミングや感覚や直感や偶然によって作られたものがほとんどだ.本格的に狙って作られているともし説明があれば,それは後から再構築されたそれっぽいエピソードに過ぎないと考えた方が良い.だから,策士という人は本質的には存在せず,誤魔化し力が強いか,口が上手か,騙すことに抵抗がないかといった人が策士の中の人なんではなかろうか.

そんなぬいぐるみとかゆるキャラの中の人みたいなことを言うが,私たちは全員ゆるキャラである.それは個性を持っているとかっていう話ではない.我々人間は自分のことを100%外にそのまま出しているわけがない.言い換えるなら,どこか社会システムに合わせたり空気を読んだり相手に合わせたりして自分という像を作っている.それは自分と並んだ時に左右対称であるはずがなく,どちらかといえば本当の自分の方がいびつでガタガタしている.僕も普段暇だよとか忙しくないよとか天才ぶるが実際は全然そんなことない.自分のキャパオーバーになりそうな時はいっぱいある.それに,大丈夫だよとか了解しましたとか普段しょっちゅう使っているがブちぎれてることもあるし,何も考えていない時もある.私たちは全員ゆるキャラである.人から見られている自分というのが社会で独り歩きして,本当の自分が社会という環境や地に足を踏み入れることはない.それはまるで禁則地の様である.

本当の自分を出せないという事は常に体にストレスを溜め続けることになる.ただ,そのストレスから解放されることが果たしてよい事なのか,というかストレスを外に発散することは良い事なのだろうか.ゆるキャラの話し相手はゆるキャラであり,それを見ている第三者もゆるキャラである.ゆるキャラとゆるキャラとゆるキャラしかいないこの社会はなぜ揉めているのか.なぜ不気味な争いを仕掛けたり参加したりするのか.なぜ偽れるはずの我々は才能という先天的かつ決して定量化できない謎の概念に縛り付けられ苦悩しているのか.才能を定量化する手段としてIQなどがあるだろうけど,あれを本気で信じている人が意外にも少ないんじゃないだろうかなと個人的には思っている.

ゆるキャラのゆるキャラによるゆるキャラのためのゆるキャラ社会.リンカーンは人間という単語を使ったが彼の指した人間は本当に人間なのだろうか.というか,人間ってなんだろうか.よく親に「お前は人間味がない」と言われるが,人間味って何だ.人間風と人間味と人間に似ていると人間っぽいは全て別物ではないか.このどれかに該当するロボットや機械は人間と呼べるのか.生物的にも言語的にもこの「人間」という謎かつ低スペックな種族を綺麗に定義することは非常に難しい.とこんなことを考えていると,なぜ昨日も今日も明日もそして数百年後もこの腐ったシステムがきちんと運営され自治され,そして進化もすることなく現状維持を繰り返し続けられているのかと思うと毎日夜も眠れなくなる.

というか,夜とか時間という我々を毎日苦しめる奴らは所詮自分たちが作った後付けのルールだ.そんなものに縛られる毎日が楽しいかどうかは私には分からないが,ひとつ言えることは時間とか夜中とかそんな終わってる考え方がなくなれば人間は明日にでも滅びている気がする.理由は縛られているのが好きな種族だから.と謎いセリフを残して今日は終わる.こんなことを書き続けているといつか「見られなくなる」という刃物で切り付けられそうな気もするがもう少しこの実験を続けてみたい.

では,また.(3023文字)


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