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ボクの映画批評 第5回「ゴジラ ー1.0」(ネタバレなし)


「シン・ゴジラ」は革新的な作品だった。立ち位置が違いすぎるため比較するのは酷だ。「ゴジラ ー1.0」は原点に戻った。VFXの第一人者山崎貴が、脚本・監督として偉大なシリーズに立ち向かった。

第一作「ゴジラ」は、一級の娯楽作品ながら第五福竜丸事件などを背景とした「反核」「文明批判」といったテーマを内包した志の高い作品だった。「ゴジラ」シリーズを子どもが楽しめる怪獣映画であればそれでよしと見るか、大人の鑑賞にも堪えうる作品としての矜持を持つべきだと考えるかは意見が分かれるところだが、映像作品としての作劇の観点から問題はなかったかを主に論考していきたい。

ストーリーが面白ければ、映画は面白くなるのか

この映画は、「ゴジラの脅威」を使った主人公 敷島浩一(神木隆之介)の物語である。特攻隊の生き残りであり、初めてゴジラを目撃したときも銃を撃てず仲間を見殺しにしてしまったという心残り(「戦争はまだ終わっていない」)を晴らすのだ。

大石典子役を演じる浜辺美波

敷島は闇市で赤ん坊を抱える大石典子(浜辺美波)と出会う。敷島は、彼女らを養う羽目になる。同じ屋根に暮らしていながら、二人はただの同居人の関係が続く。子どもも見る映画とはいえ、このあたりから目の肥えた大人の観客が画面から離れていくのは致し方あるまい。若い二人の間に何もないのであれば、その葛藤くらい映し出せなかったか。扶養してもらっている典子はどんな気持ちで夜を過ごしているだろう。典子のような美しい女性に対し、敷島は何を思ったのだろう。

山崎監督が東宝の若手スタッフと何度も書き直して作り上げた脚本だが、ストーリーは「こうすれば観客は喜ぶだろう」というサービス精神に溢れている。しかし、命の扱いが軽すぎるし、ラストシーンに至っては反則である。作品を余計にチープにしてしまった。

「小僧」を演じる山田裕貴

不自然な場面も多い。ゴジラは海上から東京に上陸するが、都合良く典子の勤める銀座に突如現れる(相模湾から銀座までは、どうやって蹂躙していたのか)。銀座に日本の戦車が登場するが、アメリカ軍統治下であり、警察予備隊すらまだ存在していない。アメリカとソ連の緊迫した社会情勢も説明されているため、目をつぶることはできない。

キャスティングにももの申さずにいられない。主役二人を見ている間、ずっと朝ドラが浮かんでいた。残念ながら浜辺美波に芝居場はなく、都合のいいストーリーに奉仕しているだけの存在だった。彼女でなくても良かった。エキストラに有名俳優が出ていた。人気シリーズだから出させてくれと懇願されたかもしれない。セリフも役名もないのに大写しで撮るのはいかがなものか。作品世界が壊れる。

脚本家不在の映画作り

結局、敷島は典子を愛していたのか。典子は? 今なお不明である。舞台を戦中戦後に設定した意図は何か。一体「ゴジラ」は何だったのか。元軍人が活躍していたからアメリカ軍か? これは反戦映画か、好戦映画か? ゴジラに敬礼していたのはなぜか。さまざまな謎が残る。もちろん、映画には不都合な箇所も生まれる。それが目立ってしまうのは、作劇の大事なポイントを押さえ切れていないからだ。巧みなストーリーはそれを隠すどころか、却って目立たせてしまった。

ストーリーテラーは存在した。しかし、人間や芝居を描く脚本家がいなかった。脚本家とは、作品の良心さえも担う大切な存在であるのだ。改めて昨今の多くの日本映画の問題を代表して浮き彫りにした。

迫力満点のゴジラ

非国民と非難されても、叫ばなければならない。
「ゴジラ ー 1.0」は、一見の価値ある失敗作と断じたい。


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