見出し画像

『パーンチャ・シーラ』 五つの優しさ

 すでに世界各地で都市封鎖の緩和や解除が始められた新型コロナウイルス禍。
行政による規制が緩められるということは、今後は各人の意志と行動が試されていくわけです。たびたび注意喚起がなされているように、新型コロナの「怖さ」の一つは、無症状感染にあります。要するに、自分は平気だから、は通用しないのです。
 ◎厚生労働省『新型コロナウイルス感染症について』
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html

 私は、今回のコロナ禍で、改めてインド人仏教徒から教えられたことがあります。ご存知のように、インドの仏教は時代が下ると共にヒンドゥー教社会に溶かし込まれ、十三世紀の初頭にイスラーム勢力の侵攻を受けて、事実上滅亡しました。
現在あるインドの仏教は、独立政府の初代法務大臣にして憲法起草者:アンベードカル博士(いわゆる「不可触民」出身)によって、1956年10月14日、社会改革・人間解放の思想として復活したものです。そして、その十二年後、忽然とインドに現れた日本人青年(当時):佐々井秀嶺師の努力により、仏教改宗運動は燎原の火の如く広まって、今や日本の総人口に並ぶ信者数に達しています。
 もし仮に、現代インド仏教に「強み」があるとすれば、それは〝一度リセットできた〟ということでしょう。文字通り致命的なダウンを喫し、いったん退場させられた彼らは、まさしく手弁当で復興に取り組んでいるのです。
また、もう一点挙げるとするなら、彼らには仏教語の翻訳が特に必要ない、ということでしょう。中国人も日本人も、それぞれの土壌に合わせなければブッダの言葉を理解できません。しかしインド人にしてみれば、古代と現代の違いこそあれ、自分たちが育ったのと同じ風土で生まれた言語なのです。

 さて、今年の3月、世界的なパンデミックを受け、日本在住の改宗仏教徒たちはすぐさま定例行事のオンライン化を立ち上げました。もともとIT関係に強い彼らでしたが、その素早い対応には感心しました。すると、いともあっさり、
「だって、シールじゃないですか」
そう答えたのです。ヒンディー発音でシールとなるशील(Sheela。漢字音写:尸羅)は、仏教でいう「」の原語です。日本では戒という言葉にいかめしいイメージを持たれるようですが、原語のशीलは〝謙虚さ〟の意味であり〝他者を思い遣るがゆえに身を慎むこと〟なのです。
ちなみに漢字の戒は、戈と廾から成る会意文字とされ、武器(戈)に両手(廾)を添えて持つ姿といわれます。例えば日本の剣道でいう「正眼の構え」のような、攻守を同時に兼ね備えた状態でしょうか。つまり、勝利の第一手が戒という字なのでしょう。
これらを踏まえた上で、शील(Sheela)の意味を今日的に再構築するならば「危機意識を持つこと」になるかと思います。

 戒。仏教徒が日常的に守るべき〝謙虚さ〟は、五つあります。
これをपांच शील(パーンチャ・シーラ。Five Modesties)といいます。日本仏教では「在家五戒」などと呼んで入門者向けのように紹介されますが、一度は滅ぼされた経験を持つインドの改宗仏教徒にとっては、具体的かつ現実的な「生きる指針」なのです。
それでは、以下に日本で親しまれた名称、パーリ語、そして現代仏教徒のネイティヴな理解を和訳して記しましょう。
①不殺生戒
パーナーティパーター・ヴェーラマニー・スィッカー・パダン・サマーディヤーミ
「生き物を傷つけ生命を奪うことから、離れます」
②不偸盗戒
アディンナーダーナー・ヴェーラマニー・スィッカー・パダン・サマーディヤーミ
「与えられてない物を手にすることから、離れます」
③不邪淫戒
カーメース・ミッチャーチャーラー・ヴェーラマニー・スィッカー・パダン・サマーディヤーミ
「欲望のままに交わることから、離れます」
④不妄語戒
ムサーワーダー・ヴェーラマニー・スィッカー・パダン・サマーディヤーミ
「偽りを語ることから、離れます」
⑤不飲酒戒
スラーメーラヤ・マッジャパマーダッターナー・ヴェーラマニー・スィッカー・パダン・サマーディヤーミ
「嗜好品に依存することから、離れます」

 以上の五つに共通して唱えられる文言「ヴェーラマニー・スィッカー・パダン・サマーディヤーミ」。
まず「ヴェーラマニー」とは〝離れる、距離を置く〟といった意味です。コロナ禍の現状で云うなら、ソーシャル・ディスタンスのように物理的距離を保つのはもちろん大切ですが、心理的な距離感を意識する、すなわち《自助自存の心掛け》も必要ではないでしょうか。
そして「スィッカー」とは、みずからに課すこと。「パダン」とは、歩み。「サマーディヤーミ」とは、きちんと受けとめる意志表明。
このサマーディヤーミについて、日本のアメリカン・スクールにかようインド仏教徒の女の子は、
「OUR CHOOSE」
と訳しました。さすがネイティヴ!と、私は膝を打ちました。

 他者を思い遣るがゆえに身を慎むのが戒(शील)です。
感染防止に努めることは、不殺生戒。衛生用品などの買占めをしないことは、不偸盗戒。可能な限り不特定多数との接触を避けることは、不邪淫戒。デマや迷信の拡散に加担しないことは、不妄語戒。憂さ晴らしをしても野放図にならないことは、不飲酒戒。
 五戒(パーンチャ・シーラ)は、人々の健康をも守るのです。

【創作舞踊】富永利香氏『五つの優しさ』
2019年7月、佐々井秀嶺師来日の際、わが国で初めて現代仏教讃歌にのせた創作舞踊が奉演された。同10月、在日インド人仏教徒の主催による「改宗記念祭」で再演された時の動画(6分16秒)。

《富永利香氏オフィシャルサイト》https://licatominaga.com/
(※オンラインによるダンス指導も受付中)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?