見出し画像

痛みを知る者

《 ヴィヴェーカーナンダ の言葉》
Krishna was wiser (than Buddha).  Because he was more politics.  Buddha made a fatal mistake of thinking that the whole world could be lifted to height of Dhammapada.
ヒンドゥー教の神クリシュナはブッダより賢かった。なぜならクリシュナはもっと政治に則していたからだ。 ブッダが犯した致命的なミスは、全世界をダンマパダに説く理想の高さまで持ち上げられると考えたことだ。
Wiki: 法句経(ダンマパダ)

 上に引用した言葉は、一般的な日本人には意外に感じられるかも知れません。ですが「スワミ(聖賢)」とも称されるヴィヴェーカーナンダは1863年〜1902年の人であり、インド仏教が滅亡した13世紀初頭からおよそ650年後、またアンベードカル博士が仏教復興を宣言する1956年よりも半世紀以上前の人物です。要するに、ヴィヴェーカーナンダにとって仏教は〝むかし栄えた時期もあったが所詮は過去のもの〟に過ぎず、それは、批判点が「politics」だったことから分かるように、ブッダの説いたとされる人間平等がインド社会を構成するカースト制を否定していたからです。
 とはいえ、ヴィヴェーカーナンダの思想は21世紀の現在もヒンドゥー・ナショナリズムの基盤を形成し、いわば国家公認の「インドの魂」とされています。

 さて、そのインドの魂から〝致命的なミスを犯した〟と批判されたブッダには、のちに『十大弟子』と呼ばれる優秀な門人がいたようです。

画像1

〔大報恩寺様蔵:快慶作釈迦十大弟子立像〕

 この「十大○○」という呼び方の起源についてですが、ことインドに限って云うなら、ヒンドゥー教の維持神ヴィシュヌが現すとされる〝十の化身〟に触発された可能性もあり得るでしょう。ちなみに、ヴィシュヌ九番目の化身がブッダで、
〈世界は創造・維持・破壊の三期から成る。創造神ブラフマーから世界の維持を託されたヴィシュヌは様々な化身を現して世界を守る。だが破壊神シヴァと交代するためには、正しい宗教が廃れ、魔族がはびこる必要がある。そこで九番目にブッダとなって邪教を弘めたのだ〉と云々。
   (ヒンドゥー聖典『バーガヴァタ・プラーナ』より取意)

画像2

 ところで、十大弟子の伝説が整えられたのは紀元後のようですが、各々の顔ぶれを出家前の階級で見ていくと、今日なお続くインドの現実が立ち上がって来ます。
 カースト最上位のブラーマン(司祭)からの改宗者は、舎利弗/目犍連/大迦葉/富楼那/迦旃延の五名。第二位のクシャトリヤ(武士)出身者は、阿那律/羅睺羅/阿難陀の三名。ところが、第三位のヴァイシャ(町民)からは須菩提、最下位のシュードラ(奴隷)出身は優波離、と各一名ずつ。
ブッダ教団にカースト差別は無かったはずですし、個々の生育環境による理解力の差はあったにせよ、じつに生々しい人員構成と言えるでしょう。そんな中で、シュードラ出身の優波離(ウパーリ:उपालि)の存在は、ひときわ異彩を放っています。彼は、ブッダ入滅後の仏典結集において『律』の編纂を指揮した修行者です。

 シュードラのさらに下、アティシュードラ(奴隷に仕える奴隷)と蔑まれた身分が、いわゆる〝不可触民〟です。彼らの祖先については、おおむねインドの先住民族、あるいは古代戦争で負けた敗軍の将兵であったろうと推定されています。
人類とは見なされず、社会の底辺に押し込められ、与えられる仕事は汚物処理や清掃、雑役や工事夫など、汚れ仕事に限られました。これほど理不尽な差別制度(Untouchability)が公的に禁止されたのは、現行のインド憲法が発布された1950年1月26日以降のことなのです。その憲法を起草したのが、独立インド初代法務大臣にして〝不可触民〟出身のアンベードカル博士です。
 単なる歴史の偶然か、それとも「人道の理」なのか。生きることの痛みを知った人たちだからこそ、決まり…律、憲法…を正しくする大切さを実感していたのではないでしょうか。
〔優波離尊者とアンベードカル博士〕

画像3

 アンベードカル博士の跡を継いでインド仏教復興を指導する佐々井秀嶺師は、十歳になる頃、日本の敗戦を経験しました。1945年8月16日の朝、町内のあちこちに、このような落書きをして回ったそうです。
「戦争に負けていきびだ」
いきび、とは方言で〝いい気味〟の意味です。
 戦争では多くの人が亡くなった。出征した叔父や知り合いもたくさん死んだ。あんな悲しい思いは二度とまっぴらだ。悲しむ人も見たくない。みんなに笑顔が戻るなら、負けてよかった。戦争を始めた奴、その尻馬に乗った奴はいい気味だ、と。
   
〔佐々井秀嶺師著『必生 闘う仏教』集英社新書。拙編〕

画像4

 ブッダは政治的に見れば賢くなかったかも知れません。
ですが、いみじくもヴィヴェーカーナンダが「LIFTED」と表現したように、高い所から憐れみを垂れるのではなく、大地に立って持ち上げようとされました。それを「FATAL MISTAKE」で終わらせるかどうかは、ブッダと同じ地上に生きる私たちのテーマだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?