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白い道を行く

自由な心こそ、本当の自由です。 心が自由でない人は、鎖に繋がれた奴隷でなくても、自由な人間ではありません」アンベードカル博士。 

 去る12月11日、日本在住インド人仏教徒の団体:アンベードカル博士国際教育協会 (BAIAE) の主催により、人間解放と仏教復興の先達に感謝を捧げる『第65回アンベードカル博士涅槃會(Mahaparinirvan)』が開かれました。
当日は感染拡大防止のため有志参加のみに限定、マスク着用と手指の消毒を徹底し、ソーシャル・ディスタンスを保ちつつ開催致しました。

 西暦1200年代初め、インドの仏教は滅びました。
すでに民情との乖離が社会的ピークを過ぎていた上座部、また一方で大衆化がヒンドゥー教義の許容まで進んでいた大乗、そして秘密金剛乗(密教)は、圧倒的な武力と共にアッラーの下での人間平等を説くイスラム勢を前にした時、もはや抗い得る熱量を失っていました。その後、およそ700年もの間〝ブッダの国に仏教は無かった〟のです。

 1891年4月14日、アンベードカル博士はいわゆる「不可触民」の子として生まれました。不可触民とは、ヒンドゥー聖典『マヌ法典』に基づき、触れてはならない、声を聞いてもいけない、その影を踏んだだけでも穢れる、とまで忌み嫌われた最下層の身分です。
しかし、教育熱心な父の方針により、差別に屈せず強く生き抜く知識を得るため、上位カーストの子弟が通う学校に入りました。そのため同級生から凄まじい差別を受け、教師は存在自体を完全に無視、職員からは校庭の水飲み場の使用さえ禁じられました。こういった数え切れないほどの差別と虐待に耐えて勉学に励んだアンベードカル少年は、名門校へと進学し、奨学金を得て、アメリカやイギリスヘの留学を果たします。そして政治学、経済学、社会学、歴史学、法学など多岐に渡る分野において類まれな才能を開花させ、「Dr.」となったアンベードカル青年は、帰国後、インドの階級差別撤廃運動に着手したのです。またその過程で、社会改革と人間解放のための宗教的・思想的な支柱として、仏教を復活させる必要性に気付きました。
 1947年、インド独立に際して初代法務大臣に就任。そしてついに1949年、あらゆる差別を全面的に禁止した現行インド憲法を作り上げたのです。
しかし、法の整備だけでは無くならない不正義や不平等と闘うべく、1956年10月14日、インド中央部ナーグプール市において、五十万の被差別民衆と共にヒンドゥー教から仏教への集団大改宗を挙行し、仏教の復興を宣言しました。十三世紀初頭の滅亡から700年、ブッダの国に仏教がよみがえった瞬間でした。ところが、そのわずか二ヶ月後の12月6日、アンベードカル博士は此の世を去ったのです。
 訃報の衝撃は全インドを揺るがせ、別れに馳せ参じた民衆によって地平は埋め尽くされました。

 じつは当初、火葬場について、憲法起草者に相応しい場所が予定されましたが、「不可触民を聖地で焼くな」と上位カースト者から猛烈に反対され、ボンベイ(現ムンバイ)のチョウパティ海岸で荼毘に伏されました。

 さて、次の画像をご覧ください。
向かって左は、日本仏教の浄土系宗派で掲げられる『二河白道図(にがびゃくどうず)』。右は現代インドの改宗仏教徒が描いた『बाबासाहेब के साथ(アンベードカル博士と一緒に)』です。

左の構図とアイデアを右が借りたことは一目瞭然ですね。しかもよく見ると「白道」が「TRUTH(真実)」と説明され、「群賊悪獣」が「CASTEISUM(差別主義), MANUSMRITI(マヌ法典)」の蛇、「彼岸」が「FRATERNITY(友愛), EQUALITY(平等), FREEDOM(自由)」と、もとの『二河白道』をかなり正確に理解していることが判ります。
インド人にしてみれば〝後世の分家〟に等しい中国や日本の浄土教義を、むしろ積極的に引用・翻案し、自家薬籠中の物としているその柔軟さは尊敬に値するのではないでしょうか。
《二河白道》
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E6%B2%B3%E7%99%BD%E9%81%93-591118

 現在、日本国内には六十世帯を越すインド人仏教徒が暮らしています。コロナ前は総員およそ200名が結集する行事が毎年開かれていました。彼らの一人一人がブッダを敬い、アンベードカル博士に導かれ、佐々井秀嶺師を仰いで『白道』を歩んでいます。その原動力となる言葉が、これです。
「ジャイ・ビーム!」

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