アングリマーラの伝説
〈※ ヘッダー画像は2003年のタイ映画『Angulimala』より〉
多くの神話や宗教説話において、異教とその神格はDemonization(悪魔化)されます。これは一神教のみならず多神教でも云い得ることで、否、むしろ価値観の一本化を前提とした一神教より多神教の「万神殿」のほうが、現実の人間社会‥‥権威と支配構造‥‥を複雑巧妙に反映している、ともいえるでしょう。
いわゆる〝創唱宗教〟の教祖伝で定番のヤマ場となる逸話「救われざる者の救い」。個々のディテールに差異はあっても、おおむねバッドエンドにはならないようです。とはいえ、その宗教が創唱された時代とその周辺環境を無視するなら、予定調和のハッピーエンドに誘導されるだけでしょう。
さて今回は、仏教説話の中でも有名な『指鬘外道(しまんげどう)』の伝説について、敢えて〝仏教〟外の、インド文化の視座から再考します。
〈注︰以下は一部に残酷表現を含みます〉
凶悪な殺人鬼の改心譚として伝えられる指鬘外道=アングリマーラの物語は日本語Wikiが出来ていますし、手塚治虫『ブッダ』にも作者による脚色を経て登場しますので、一度ご覧になっていただきたいと思います。
※ アングリマーラに関するWiki
Wikiの記載はあくまで仏教説話に拠るもので、例えばアングリマーラの本名をアヒンサカ(अहिंसाका/Nonviolence By)とするなど、『テーラガーター/仏弟子の告白』(中村元訳︰岩波文庫)に収められた本人の言葉(173頁)とは微妙に異なります。
しかし、序盤に述べた《異教の悪魔化》という点から見直すと、重要なポイントが浮かび上がって来ます。その第一は、彼の出自が波羅門(ब्राह्मण/ブラーマン。ヒンドゥー最高位の司祭階級)とされていることです。
説話では〝師から術をかけられて〟とも伝えられる彼の殺人と手指切断ですが、敢えて云うなら、インドにおける師弟関係の基本は「गुरु(グル/師)に仕えること、神に仕えるが如くせよ」であり、とりわけ司祭階級においては徹底されます。またグルは、प्रभु(プラブー/師、光明、神)と同義であり、要するに、術をかけられなくても命令には従うべき、というわけです。無論、良心に従って破門覚悟で逆らう、という道もあります。ですがそれは、みずから身分を返上することに繋がり、司祭階級のコミュニティから追放されかねない道です。
「森の中で、あるいは樹木の根もとで、山の中で、あるいは洞窟の中で、至るところで、そのとき、私は脅えていた。」(『テーラガーター』)
仮に、カースト追放を畏れたアングリマーラが保身のため凶行に走ったとするなら、初対面の時ブッダが彼に掛けた言葉、
「貴方は自分で立っていない (取意)」
その深さと広さが改めて知られます。
第二には、肉体の一部を切断・採取する行為。
あきらかに常軌を逸した振る舞いであり、近代知性ならずとも蛮行と認識されるものです。しかるに人類の歴史において、戦果の証として敵方の鼻や耳を削ぎ落として集めたり、敵将の首を取ることは行われて来ました。
《殺害した相手の指(アングリー)を切り取って首飾り(マーラー)を作る》
といった異常な行動は、廃されるべき古代呪術の象徴でもあったでしょう。
言うまでもありませんが、だからといって擁護される筋合いの話ではありません。アングリマーラの手に掛かった人々には、家族もいれば恋人もいたでしょう。仏弟子になったのち、彼は行く先々で報復と暴行を受けたと伝えられます。ましてや、それまで差別に泣き寝入りしてきた民衆からすれば、「あの殺人波羅門が勝手に宗旨変えした」と聞けば、沸き上がる衝動を抑えきれなかったはずです。
アングリマーラのような凶賊をヒンディー語ではडाकू(ダークー)等と呼びます。彼らは時に威嚇と見せしめのため犠牲者の身体の一部を切除することもありました。出身階級は様々で、凶賊団内でもカーストの序列があったようです。事実上、二十世紀まで暗躍を続けていましたが、警察との度重なる攻防の果て、表向きは壊滅したとされています。
さて、伝説ではなく現代の実話に、凶賊から仏教徒に生まれ変わった女性がいました。
プーラン・デーヴィー(1963〜2001)です。
ガンガー流域で船頭や荷物運びに従事する被抑圧階層︰マッラ族に生まれたプーランは〝口減らし〟のため児童婚をさせられました。幼い彼女の夫となったのは二十才以上も年の離れた男。性行為も含め数々の虐待を受けたプーランは荒野に逃れ、一人で成長。凶賊団に拾われ、裕福な上位階級を襲撃しては盗品を下層民衆に与える義賊となりました。ところが、裏切りによって仲間は暗殺され、上位階級の村に連行されて、男たちから辱めを受けました。その報復のため殺戮を繰り返す一方で、義賊として跳梁する彼女のことを民衆はいつしか「荒ぶる女神」と崇めるようになりました。
警察に投降後、十一年の収監を経て出所したプーランは、女性解放と児童婚の根絶を掲げて政界に進出。また同じ頃、人間平等を説く現代インド仏教と出会い、仏教徒になりました。しかし、2001年7月25日、ニューデリーの自宅前で復讐の銃弾に倒れ、死去。享年三十八才。
蛇足になりますが、いわゆる「天竺(てんじく)」が畏怖と憧憬の〈異世界〉だった時代ならともかく、今や一般の皆さんが観光でインドに行ける時代です。にも関わらず、例のファンタジー…
〈日本では〝人に迷惑をかけるな〟と教わるが、インドでは〝人に迷惑をかけられても赦せ。自分も誰かに迷惑をかけてるのだから〟と教わる〉
などといった虚構の流布に加担することは、他国文化の軽視だけではなく、そこに生きている人々を愚弄した振る舞い、と云えます。
改宗後のプーランと直接会った 佐々井秀嶺 上人は、
「仏教のことはあまり知らなかったようだ。だいいち、勉強する機会なんてそれまで無かったんだからな。この世にあるんだよ!地獄は」