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自由、無限、聖なるもの。<JINMO Glossolalia>

1.1.
不自由は、選択の不可能性に依拠するが、自由は、その選択可能性における前提条件として非絶対化に依拠する。

1.2.
(一般的に自由とは異なると考えられる)蓋然性は、必然的に不可知領域を含むが、蓋然性が随意の行動の結果であった場合は、すなわち非絶対化による恣意性からの逸脱であるため、選択可能性を生み出す。

1.3.
不随意な行動は選択不可能性に依拠するため、不自由さと同等の意味を持ちうるが、不随意は概念として不自由と厳密には異っており、不随意は概念のうちに志向性を持つため現実性を伴わざるを得ない。

1.4.
そのため、随意的な行動において発生した選択不可能性は、不自由であるが、不随意的な行動において発生した選択不可能性は、二重否定的な意味においても自由である。

2.1
非絶対化の極限において「純粋な自由」が想定されるが、非絶対化の極限は個体や意味からも自由であるため、その意味すらも規定することはできない。

2.1.1
そのため、純粋な自由はそこに規定不可能性、つまり、無限を有する。

3.1.
無限そのものを論じることは本体論(語りえないもの)であり、不可能性に依拠するため、不自由が導かれるが、不随意的な行動として、無限に向かうことは、非絶対化への志向性となり、自由が導かれる。

3.1.1.
ここにおいて、論じることと行動は志向性として同一化できないことがわかる。

3.2.
論じることとは語りえないものを語りえないとすることで、非絶対化となるが、行動は行えぬものを行うことによって、非絶対化となる。

3.3.
行えぬものとは、身体や認識など、有限性を持つ事象における選択不可能性に依拠する。ただし、有限性は行為主体によるもののみならず、社会性など、外的因子による規定によるものもある。

3.4.
そのため、行えぬものを行うことは、有限性の限界を超える、つまり、有限性の破壊に通ずる。そして、結果的に有限性を持つ事象の真実を露呈させる。

3.4.1
つまり、真実とは成立ではなく、可能不可能性ではなく、暴かれるものである。

4.1.
そして、行えぬものを行い、純粋な自由へと向かい続けることによって、純粋な自由のうちにある無限すらも露呈され、「純粋な無限」、つまり時間を含め、ありとあらゆる規定が不可能な「純粋そのもの」が現れる。

4.1.1
「純粋そのもの」は、現れるものとしての超越性であり、そこに人間性の現れを見ることによって「聖なるもの」とされる。

<2021/05/29 last Update>

JINMO +++ Glossolalia (ver.5.0) +++

<以下、上記リンクより引用>
Glossolalia (ver.5.0)

2006/03/01 リリース(avantattaque-0002)
2016/12/6 Last Update
全50曲 (total. 46:20)
フォーマット:Apple ロスレス (44.1kHz 16bit)
ウェブ・ストリーミング版
ジャケット・デザイン:HARI
Created by : JINMO
Published by : Avant-attaque

【注:本作品は、あくまでJINMO氏の作品群への寄稿文であり、彼や彼の作品そのものと直接関係するのではありません。同じ主題を扱った全くの別の作品であり、JINMO氏の音作品群を楽しむためにあるものです、ご了承ください。】

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