見出し画像

宗教と、「千と千尋の神隠し」。

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 さて、前回の『もののけ姫』の考察に引き続き『千と千尋の神隠し』(2001)です。

 下記の考察は、以前質問系SNSのQuoraに掲載したことがあり、後半はあまり変えずに掲載させていただきます。笑

 ただ、多少の修正などもあり、こちらが最新版となりますので、宜しくお願いします。

1. 働こう、というメッセージ。

 まず、魔女の姉妹である、姉の銭婆と妹の湯婆ってのがいますね。

 二人の頭文字を足すと、銭湯ですね。

 だから、銭湯とちひろ、、、せんとうちひろ、、、せんとちひろ、、、千と千尋。

 ダジャレやん、というツッコミはさておき『千と千尋』についてです。

 まず、『もののけ姫』のテーマが「生きろ。」だったのに対して『千と千尋の神隠し(以下、千と千尋)』のテーマは、「働こう」です。

 しかし、「働こう」と言っても、単なる金銭を得るための労働のことではありません。

 1990年末期から、とてもよく聞かれる言葉となった「ひきこもり」

 現在も、この「ひきこもり」が長期化、高齢化し、現在、日本の生産力や購買力が落ちています。

 日本において、ここ数年、日本における死者数は出生数に比べてかなり多くなっています。

 2019年においては、50万人弱も減少しており、東京で言えば江東区、関西で言えば甲子園のある西宮市が消滅するレベルです。

 もちろん、どこかで減少は緩やかになるでしょうけれど、モノは増え続けて更新され続けている、すると大量販売形式の商売は必ずどこかで頭打ちになる。

 だからこそ、これからは情報や教育が今後の商材にならざるをえないと、ソフトバンクの孫正義さんも大昔に言ってましたし、今やトヨタですら、終身雇用はもう厳しいって言うぐらいです。

 それなのに、親の年金を食い潰しながら、自分のプライドなんていう実質のないものに固執して、それこそ「パラサイト」と呼ばれる中高年の引きこもりまで増え続けています。

 そもそも、働くっていうのは、自分で働いているわけではありません。

 最小単位で言えば、それこそ家庭や、共同体や国によって、私たちは生かされているわけです。

 その中にいれば他者に対して働かざるをえないんです、実際に金銭を得る労働でなかったとしても、何らかの働きかけは存在します。

 例えば、家事というシャドー・ワークや、小さなものだと簡単な会話やコミュニケーションも、一つの働きかけです。

 そして、それらの働きかけが循環することによって、社会というものが動いている。

 この社会の循環を促すことこそ、「働く」ということです。

 そもそも、人間は、動植物の生命を奪わないと生きれません。であるからこそ、逆に生命の循環を促さないといけない。

 もし生命の循環を促さずに停止させてしまえば、行き着く先は絶滅です。

 諺にあるような「働かざるもの食うべからず」どころじゃない、「働かざるもの結果的に死んでしまう」んです。

 日本においては、財政赤字の悪化、社会保障制度の深刻化、少子高齢化、環境問題、孤独死に貧困の拡大と、まさに循環を阻害する要素や問題で満ちています。

 『千と千尋』では、神様の世界に迷い込んだ千尋が、まず始めにハクから「ここでは働かないものは死んでしまう」って言われます。

 「ここでは」という意味はとても刺さります、日本はもはや働かないでも生きようと思えば生きていける場所になってしまっていますから。

 「可愛い子には旅をさせよ」「苦労は金を出してでも買え」と言いますが、苦労しないと人間は、より弱く脆くなります。

 もし欲望のままに振る舞って、あろうことか詐欺みたいな手口や、偽金を扱ったとしても、一時的な欲望は満たせたとしても、本当に欲しいものは得られません。

 それは、ただ社会の循環を阻害するだけで、最終的に自滅します。

 映画でも、カオナシが体現してくれてます。

 人は、良い循環の結果に生まれる言葉、「ありがとう」の数によって、どうやって行動すべきかを教えられ、気付かされるんです。

 これはやっぱり行動しないと、働かないとわからない。

 それなのに、「でもやっぱり僕は」なんて言わせてしまう風潮が、いまだに日本にはあります。ただただ間違いを非難し、失敗を断罪したまま放置するような、悪しき慣習です。

 むしろ、失敗した経験こそ、素晴らしいものなんです。

 だから映画でも、失敗したカオナシに銭婆が「手伝っておくれ」と言うんですね。社会とのつながりが始まるキッカケや場所こそ、重要なんです。

 そんな場所で、小さな承認と成功の積み重ねが続いていくことが、一番大切なんです。

 今や『千と千尋』から20年、失われた30年とかマスコミが言ってますが、もう失っている場合ではないでしょう。

 働くことを奪うことは、生きがいを奪うのと同じです、繋がって初めて、社会に循環が生まれるんです。

 だからこそ、まずは手を取り合わなければならない。

 それが『千と千尋』に秘められたメッセージではないか、私はそう思います。

 という事で、そろそろ内容に入っていきましょう。

2. 神隠しと、風俗。

 まず、神隠しと言いますが、昔で言うと「遭難」または「誘拐」「口減らし」などが主な原因だったそうです。

 山歩きすればわかりますが、まぁ、山ってのは穴ぼこも崖も多いです。

 すっと落ちたら、二度と帰ってこれない場合も多々あります。

 しかも、昔は山賊に狼に熊にと、危険もいっぱいあったわけです。

 そのため、昔の「神隠し」は遭難や行方不明が多かったと考えられます。

 映画『千と千尋』の場合、いわゆる超常現象としての神隠しを扱っています。

 日本文化でいう「神隠し」とは、「あの世」と「この世」を行き来する事で、幽体離脱とか、臨死体験とかにも近い感じですね。

 まず、アニメの始めあたり、車で坂道を登った先に、トンネルが出てきますね。

 民俗学ではトンネルや洞窟は、子宮を表していていると言われます。

 また、「トンネルを通る」=「生まれ変わり」という意味もあります。

 逆に、「生まれてきた穴に戻る」=「死ぬ」という暗示もあります。

 日本神話でも、イザナギが、死んだ妻イザナミに会おうと、黄泉比良坂(よもつひらさか)を通って、黄泉の国へ行きます。

 あれも文字通り、神隠しの一つなわけです。

 こういう「あの世へ向かう」というのは古くはメソポタミア神話(イナンナの冥界下り)にも現れている世界的なパターンで、坂もトンネルも、あの世とこの世の境界になっているわけですね。

 ということで、映画の最初の部分で、主人公の千尋とその家族は、まずあの世へ入りこんでしまうわけです。

 そして、千尋の両親が、あっち側でモノを食べてしまうわけです。

 すると、ブタになって、人間でなくなってしまいます。

 これは「あちら側でものを食べると、もう戻って来れなくなる」という御伽噺アルアルです。

 昔、村の外からやってきた客人をもてなすとき、そのまま村に住人として引き入れる事がありました。

 最近で言うと、田舎の婚活みたいな感じですね。

 村の人口を増すと言うよりも、村に他の血(子ども)を入れるとか、外から結婚相手を引き入れたりするんです。

 方法としては、村の若い娘に「逆夜這い」させたりして、無理やり結婚させます。

 文字通り「責任とってよね!」です。

 おそろしいですね。

 一方、外から来た客人を一泊させて、殺してしまうという文化もあります。

 これは、これは客人を神様(来訪神)や妖怪とする風習や、村の秘密性を守るため、または外部の人間(を食べて)から、力を貰おうという場合もあります。

 もっと、おそろしいですね。

 実際、日本で旅をする遊女なんかは民家などに入ってしまうと、それこそ「おそろしいこと」になったりしたそうで、彼女たちを守る場所として神社や寺が機能していた事もあったそうです。

 とにもかくにも、外から客人が来るというのは一大事だったわけです。民俗学では「マレビト」などども呼ばれて、神様みたいな扱われ方をしたりしたそうです。

 客人は外からの情報(や物資、例えば薬など)を持ってきてくれる、とても貴重な存在だったんですね。

 また、今で言えば、山間の村なんて限界集落になったり、金銭的にも食糧的にも危機になることも多かったせいか、盛大な「おもてなし」も存在したようです。

 それが、千と千尋の「湯屋」のモデルになったわけです。

 江戸以前の日本の田舎は、お風呂なんて滅多になかった。

 五右衛門風呂ですら地主の家にあるかないかのレベルです。

 なので、基本は桶や水浴びでした。

 どちらかと言うと、当時の風呂は公共サウナのような形状でした。

 もちろん石鹸はなかったので、垢すりがメインです。

 そして、そこには湯女(ゆな)という垢すり担当の女性がいました。

 彼女たちが、客人を「もてなす」んですね。

 今で言う、風俗ですね。

 垢すりだけでなく、しっかり「やることやっていた」わけです。

 ついでに子種をもらうため、でもあったのかもしれません。

 大胆ですね、昔の人は。

 これが最終的に安っぽい風俗へと発展し、多額の金銭を必要とした遊郭を滅ぼしたとまで言われました。

 まぁ、それはいいとして。

 『千と千尋』の舞台は、言ってみれば神様のための歓楽街ということです。

 そのため、登場人物には、カエル男やら、ナメクジ女とか、水っぽいキャラが多いし、精力剤の「イモリの黒焼き」が重宝されたりするんですね。

 今でも「精進落とし」とか言いますが、歓楽街が神社や寺の近くにあったりするのは、神社や寺で精進して身を引き締めた後に、開放するための場所だった訳です。

 また、そもそも神社の巫女というものは、ダンサーであり、そのダンスから品定めして、ムラムラっと来て、このままでは帰れん!というパターンがあったことも関係しているでしょう。

 日本神話ですら、岩戸に隠れたアマテラスを誘い出すために、アメノウズメが裸踊したという神話(岩戸隠れ)のある日本文化です、さもありなん、とも言えるかもしれません。

 そして、ちょっと巫女っぽい服装である千尋と従業員たちと、遣手ババアである湯婆々の元に、色んな神様がやってくる訳ですね。

 なんて、子供たちに説明しづらいアニメなんでしょう。笑

 ということで、神様を簡単に解説したいと思います。

3. 神様と、キャラクター。

 まずは、白竜のハクですね。

 白竜って言ってますが、元ネタは多分カイコです。

 絹を作るカイコガの幼虫、カイコですね。

 なんで?と思っら画像検索で「カイコ 幼虫」って入れてください。

 馬っぽい顔の白い幼虫がうじゃうじゃ出てきます。

 うわぁ、、、ってなりますが、竜に見えなくもないですね。

 このカイコが日本に伝わった話が、東北に伝わる『オシラサマ』の物語です。

 ざっくり起承転結で説明すると、

1、ある白馬が村の長者の娘に恋をする。
2、村の長者がそれに怒って、白馬を過労死させる。
3、長者の娘は、白馬の思いに心を打たれて、一緒に天国へ行く。
4、そして、村の長者が悲しんでいるところに、二人の生まれ変わり?のカイコが飛んできて、絹を作り、村が盛えた。

 という不思議な話です。

 彼は実は、神様の名前を持ってます。

 後半に出てくるハクの本当の名前、コハクガワ。

 本名は「ニギハヤミコハクヌシ」だそうです。

 微妙にもじってありますが、日本神話のニギハヤヒノミコトが原型でしょう。邇藝速日命(古事記)と書きます。

 簡単に言うと、奈良の生駒山に到達して、近畿から「日本」を作った偉大な神です。

 以前の『もののけ姫』でもちょろっと紹介させていただきましたね。

 ちなみに、DVDが発売されるときに一緒についてきた「ハクのおにぎり」ですが、あれも駄洒落だと思われます。

 能の一つに『熊野(ゆや)』という一曲があります。

 熊野と書いて「ゆや」と読むのは、音読みです。

 この曲の主人公は「ゆや」という名前の遊女で、「湯会」と書くこともあり、もう一人の登場人物である平宗盛の愛人という設定なんかも、千と千尋の設定と少し被ってきます。

 そして、「熊野松風に米の飯」という言葉があって、能の『熊野』と『松風』は、米飯と同じく何度観ても飽きず、噛めば噛むほど味が出る、などと言われるのです。

 そのためか、ハクは千尋に「おにぎり」を渡したのでしょう。

 最初は、なんでオニギリなのかと思いましたが、これが個人的に納得がいく説明でした。なので、通説ではありません。笑

 さて、ほかにも、湯屋に来る神様のうち、奈良の生駒山に祭られている神様で、千尋を助けてくれる神がいます。

 オシラサマといいます。

 映画だと、顔から大根が2本飛び出している神様です。

 あの大根さんは、インドではガネーシャという象の神様で、日本では歓喜天(聖天さん)という神様です。

 神様に大根と巾着が捧げられたりしますが、これは、男性器と女性器の象徴です。

 巾着に大根が入る、ということですね、これも風俗ですね。

 歓喜天は、ものすごくエロティックな仏像であるためか、生駒山以外では、色街である吉原や、天下茶屋にもいます。

 ほかにも、クモのような形している、「釜じい」というキャラも出てきますね。

 彼は、東北の竃の神様、カマジン(釜人:火男:ひょっとこ)から来ています。

 また、彼は日本の火の神、カグツチがモチーフだと思われます。

 これも前回『もののけ姫』において書きましたが、カグツチは、死んだ時に流した血から8人(死体からも8人)の神様を産んだんですね。

 ここから、8本足のクモと混ざっているのかもしれません。

 また、神話に出てくる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が、かつてはタタラ製鉄を行っていた民族の総称ではないか、という話もあります。

 タタラから溶け出る鉄が8つの首を模しているとかで、もしかしたら釜じいは、ヤマタノオロチなのかもしれません。

 ちなみに、島根には、温泉神社というヤマタノオロチ伝説由来の地があるそうで、こちらの方が関係性が深そうです。

 そして、従業員としていっぱいいるカエルも神様の一種です。

 彼らは中国の風水にも出てくる神様、「蟾蜍」(せんじょ)でしょう。

 主食が小銭というなんともエンゲル係数の高い妖怪で、悪事を働いていたところ、捕まえられてから会心して金の神様になったと言われています。

 だから金が好きなんですね。

 また、千尋を助けてくれる、オクサレサマと呼ばれた河の神様。

 風呂に入った後にさっぱりして、能楽の「翁」の面で出てきますね。

 この姿を見て、湯婆が「名のある主」と言いましたが、それもそのはず。

 能楽でも『翁』は別格の舞とされ、新年にしか舞うことを許されません。

 また川の神というと、日本では初期の神々(アマノミマクリ・クニノミマクリ)にあたり、かなり位の高い神様です。

 そして、『翁』は、何回も体を清めてから踊る舞です。

 だから、体を洗ってくれた千尋に薬を渡したのかもしれませんね。

 他にも、オオトリサマや、春日様、そのほか神様が大量にいますが、あまりに多いので省略します。笑

 最後に、キーキャラクターの「カオナシ」ですが、おそらく、モチーフは、クトゥルフ神話の「無貌(むぼう)の神」ナイアートラルホテップかもしれません。

 もしくは、神に愛されることを求めるが故に堕落した、キリスト教のルシファー、かもしれません。

 映画としては、他人の声を使わなければ何も語れない現代人、ネット上にうよめく「顔のない人たち」っていうのを揶揄しているようです。

 キャラクターだけでも話が長くなるので、一旦切り上げます。

 で、そんな神様がいっぱい出てくる千と千尋の原案のひとつは、長野県の「霜月まつり」だそうです。

 12月の夕方から徹夜で湯を炊きながら、素手で湯をかけ合うという、平安時代から続くお祭りです。

 全国各地の神様をお面にして、本殿の真ん中にある顧客名簿である「神名帳」を読み上げながら、湯切りしながら神様を祭るようです。

 そして、この時に行う「ひいな降ろし」というものがあります。

 「ひいな」とは、説明が難しいのですが、人形型の折り紙です、映画の途中、ハクを襲ってくる湯婆婆の手先ですね。

 神様の名前とか顔とかをいっぱい書いた「ひいな」を降ろす時、「何ひろう」「チリひろう」という掛け声と共に、神様を見送ります。

 ちりひろう?、

 ちりひろ、

 ちひろ、、、千尋。

 「銭湯、ちりひろう、神隠し」からの「千と千尋の神隠し」になったわけです。

 ここでも、まさかのダジャレでしたね。笑

 それでは、全体のストーリー構成に入っていきたいと思います。

4. 魔女と、契約。

 ハクが、湯婆が姉の銭婆から盗んだ「魔女の契約印」というものが映画で出てきます。

 これは金印であり、契約であることから、「契約の箱」をモチーフにしていると考えることができます。

 契約の箱とは、モーゼが神様からもらった契約、「十戒」を入れておく箱ですね。

 何ちゅうもん持ってんねん、銭婆。

 そんなものを盗んだら、そりゃあ呪いで傷だらけになるでしょう。

 実際、触れたら死ぬとか言われるアイテムです。

 でも千尋はなんで無事に運べたのか?

 魔女の印鑑には「盗んだものが死ぬように」という呪いがあったはずなのに、千尋にはかからなかった。

 じゃあ、千尋って何者?

 たぶんですが、千尋はモーゼをモチーフにしているから、でしょう。

 モーゼは、旧約聖書に収録されているイスラエルの預言者です。

 神の啓示を受けて、奴隷として扱われていたイスラエルの民を解放する英雄なんですね。

 なぜモーゼなのか、理由は後で書きますね。

 さて、そんな「魔女の契約印」を千尋は持ち運ぶことになります。

 アニメでは、銭婆の住む「沼の底」という駅に向かうことになります。

 ってか、「沼の底」って変ですね。沼に底があるのか?

 あるとしたら、「水底に淀む黒い土の水たまり」としか考えられません。

 「水底に淀む黒い土の水たまり」を漢字で書くと「涅槃」

 これは、悟りの境地(ニルヴァーナ)って意味です。

 つまり、千尋は悟っちゃうわけです。

 実際、悟りの境地である「涅槃」にたどり着くには、五つの煩悩的なものを超える必要があるそうです。

 なので、「沼の底」は6つ目の駅、という設定なんです。

 また、この時に乗る電車の車両名が「中道」。「悟りに進むための道」という意味をする言葉です。

 なんて宗教だらけなんでしょう、このアニメ。

 かくして、いよい魔女の印鑑を銭婆に渡した千尋。

 お礼として?銭婆から「髪結び」をもらいます。

 この「カミムスビ」すら、神様を暗示しているように見えます。

 日本の創造の女神、神産巣日神(カミムスビノカミ)です。

 つまり、千尋は神の使い(銭婆)から契約をもらって、現人神(あらひとがみ)、つまり神様そのものになっちゃうんです。

 まるでエヴァンゲリオンや、まどかマギカですね。

 そして、ハク(ニギハヤヒ)と一緒に国づくりよろしく、日本に返っていくわけです。

 千と千尋という言葉が、なんとなく「千代に八千代に」似ているのも、現人神となるストーリーと関係してるのかもしれません。

 壮大ですね。

5. そして、愛。

 最後に、千尋がモーゼのモチーフである理由を書いておきます。

 川に流されてしまったり、神様からいろいろなものを与えられたり、過去の自分(が溺れた)のルーツを知ったり、海を割ってませんが、海の上の線路を歩いたり、約束の地ではありませんが、銭婆の家へ行ったり、するからです。

 それは、契約の箱を担ぐ姿が「神輿」に似ているとか、羊の血で塗った赤い扉は、ヘブライ語で「トーリィ(扉、鳥居)」と呼ぶとか(湯屋にも鳥居があります)、モーゼは最終的に日本に辿り着いたのではないか、というオカルティックなお話も混ざってるように思えます。

 ほかにも、湯婆と銭婆は、宗教の擬人化だとか、電車から見える風景は、旧約聖書で描かれた陰府だとか、戦時中の風景が映っているのではないかとかとか、とにかく色々な引用があって、もうお腹いっぱいになる映画ですね。

 あ、そうそう、銭婆から千尋がもらった髪結びは多分アメジストで出来ています。

 2月の誕生石であるアメジストは「真実の愛を守り抜く」という意味があります。

 この髪結びが、映画の最後にキラッと光ります。

 これほどややこしいアニメを作っても、締めは「愛」なのでしょうね。

(おわり)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?