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風通しの良い心と体へ

俳句に限らず、日常生活全般において、不調というほどではないけれども
「何となく、いろいろなことがスムーズに回っていないな」という時が往々にしてある。しかし、相変わらず仕事は毎日後を追いかけてくる。
そんな日々が長く続くと、ストレスを自分の中からうまく逃がすことができず、よくわからないイヤーな疲れが心身に澱のように沈殿していく。

コロナ以降、とくに顕著になっているような気がする、こんな状況。
「心身の停滞」といってもよいのだろうか。困ったものである。

特に困るのが、俳句である。
精神や感覚のセンサーが鈍ってくると、発想やひらめきがやってこなくなる(キャッチする力が鈍化したり、タイミングもおかしくなる)。その結果、俳句を作れなくなる。そのことが続くとつらくなり、何度かマズい状況に陥ったことも。

俳句を作るうえで「出会い」のような発想やひらめきに遭遇して作品化に成功すると、心の新陳代謝は自然と促される。
その時のあの「心身がぱーっと開放された自由」、そしてそこから生じる何とも言えない幸福感。日常のネガティブな経験さえも吹き飛ばすような、今ならすべてを受け入れられるぜ! みたいな高揚感。

あ~あ いつまでこんな日々が続くのさ。
ポジティブなタイプの私だが、さすがに閉口していた。

そんなある日。
いつもお世話になっている方から、Aという新しい企画をいただいた。
初めての試みで誰にやってもらうか? という話になった時に私の名前が出たとのこと。
それは私にとって願ってもない話だったのだが、実は1日前にBという話がきていたのである。BはAほど条件や希望に合っていないのだが「アリかな」と仮に受けていた。

「AとB、両方やるか~? 
でも、ちょっと時間的にも体力的にもキツイかも……」

しかし、本能は
「Aだけにしろ、Bは断れ! 心を疲れさせるな!」と
ムクムク大きく主張。
そこへ、電話が鳴った。相手はBの話を持ってきてくれた方の上司。
以前、少し縁があったのだが、しっかりしたクレバーな方。
働く者として、勝手に「通じ合うもの」を相手に覚えていた。

その上司は開口一番
「Bはやめておいた方がよい、あなたのキャリアには不要」。
びっくりした。Aの話をまったくしていないのに、何で??
それで、スムーズにBをお断りすることができ、念願のAのみに着手することができるようになった。

そんなことがあって、久しぶりに思い出した。
「風通しのよい心と体が、すべてをよい場所へ導く」

決まる時は何をしなくても自然と決まる。
同様に動くべき時が来たら、自然といろいろなことは動きだす。
だから、それまでは止まっていていいし、無理に動かなくていい。
どうにもこれは……というものは、時に見送ったっていい。

大事なのは、動くべき時、決まる時が来た時にそのこと(機会)をきちんとキャッチできる風通しの良い心の状態に自分自身を整えておくこと。
そして、それに呼応して身体(自律神経)も本来あるべき、ニュートラルな状況へ自然と戻っていく(多分、ヨーガはこういうことを実践しているのではないでしょうか、個人の勝手な見解ですが)。

その結果、水が高きより低きへ流れるように収まり、すべてが穏やかになっていく。
今の自分を認め、大事にできるようになる。そうなれば、他者を大事にしようと思えるようになる。
また、周囲の状況も「我慢」という心に負荷をかけるかたちをとらずに自分なりの方法で受け入れられるようになる。

自分が何をしたくて、したくないのか。それらが明確になれば、断るときや意見を伝えるときも俯瞰して見ることができ冷静でいられる。

嫌なことを言われたり、そんな目にあっても、「自分ごと」にせず、ある意味で冷たく距離を保てる。

それ以降、日常生活がなんとなく穏やかで柔らかいものになりはじめた。自分を追い詰めることが少し減ってきたような?
俳句も同じ。作る時や教材を纏めている時、あるいはまったく別のことをしている時でも、ぽつりぽつりと発想やヒントが以前より浮かびやすくなった印象がある。

「あ……」自分の中で何かが開く感触。久しぶりに「何か」に触れた実感。
それを零さないようにそうっと書き留めながら、コロナ以降の日々を新たに歩いていければと思う。

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