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コンプレックスと肯定と:俳句誌『豆の木』No.28

超結社句会「豆の木」。
今年の初夏、30周年記念号(No.28)が刊行。
豆の木句会を紹介いただいた後少し参加して、その後ずーっと参加せず、再び参加して今年で約12年。幽霊部員のワタクシめですが、25周年に続き節目のおめでたい年に参加でき嬉しい限りです。

刊行して時間が結構経ってしまっていますが、今回私と豆の木についてちょっと書いてみたいと思います。(メンバーおよび自分の句の紹介や雑誌の感想ではなく、あくまでも個人的な思いです)

No.28では通常の10句作品とエッセイの提出以外に、「豆の木と私」というテーマで文章を書いてください、と代表のこしのゆみこさんからリクエストがありました。
25周年の時にも同じ企画がありましたが、その時に掲載された方々は普段から豆の木と濃くコミットしている人、または長く熱心にやっている人などが中心。30周年の今回はその人たちに継ぐ付き合い/関係のメンバー、という人選だったのかな?

それから原稿提出までの二か月ほど、毎日といっていいくらいに私はこのテーマについてなんとなーく思いを巡らすことになりました。

私にとっての「豆の木」。
それは、「コンプレックスと肯定の連続」

その一言に尽きると思います。

すごいなあ、でも私とは違うなあ

30周年記念号でもちらっと書いたのですが、
私は豆の木に対して昔も今もずっと「コンプレックス」があります。

豆の木の初期メンバーはこしのさんをはじめ海程(現・海原)の方と炎環が多く、特に海程の句は私には強烈なインパクトがありました。
自由闊達な詠みぶりと表現や言葉のパワー。
それらを吸収し、ぐんぐん見違えるほどの成長を遂げる他のメンバーたち。

そういったメンバーたちを「すごいなあ」とは思っても、いつまでものんびり・マイペースに日常詠を続ける自分。
当時の私はそれで満足だった。それに長時間の句会や多作のどこがよいのか、わからなかった(これについては「ある程度の数を作って自分の言葉やマインドを鍛える必要はあると思うけど、多作である必要はない」と個人的に思っています。あと長時間の句会は今は好きです)。

俳句以外にもやっていることがあったり、楽しいことがあった。

「私にはこんな熱量と速度で俳句はできないなあ」
いつしかそんなギャップを感じるようになり、次第に「ここに居てはいけない」という思いを当時の私は抱き始めたのでした。

自分で決めて、もう一度「豆の木」

いやはや、改めてこう言語化するとこっぱずかしいといいますか
若かったな~、未熟だな~💦と思います。

羨ましかったんですよね、同じようにできないから。思えないから。
だから背を向けた。

でも、時間的・心理的に客観的な距離がある程度できてからの再開で結果的によかったのかもしれないと今になれば思います。
以前のように落ち込んだり淋しい気持ちになっても、その原因を少しは分析できるようになっており、ドツボに嵌らずに済むようになりました。

そして、「もう一度、豆の木で俳句をやりたい」と「自分で決めて」句会に行った―それもよかった気がします。
紹介されて参加もいいですが、「ここにいたい」と選択して意思表示することで覚悟が決まると言いますか、淋しかったりがーんとなっても「自分で決めたことだから」と根拠があるからこそ踏みとどまれる。
そうすると、何かあっても「次へ行こう!」としばらくすると思えるようになる。
また、「こんな句を作っている自分はダメ!」などと自分を責めたりすることも減少する。

今思うと、ある時期に距離をおいたのは1つの手法としてアリだったな、という感じです。

今もすぐに自信はなくなるけど

豆の木には今も面白い個性のある作品を作る人々がたくさんいるので、オーソドックスな作風の自分はすぐに自信がなくなります。
でも、
「自分が納得できる、腑に落ちる作品を作る」
その芯は以前より定まった感じがします。

だから、再開9年後の2021年に豆の木賞を獲れた時は本当に嬉しかった!
私は賞を欲しいとそれまであまり積極的に思ったことがなかったのですが、
再開してからは「豆の木賞は絶対に欲しい!」と願っていました。

その願いの底には
豆の木の個性豊かなメンバーに追い付きたい、作品を「いい」と言ってもらいたい。そんな子どもみたいな負けん気があったからだと思う。

そして上記のシンプルな願いは今もコンプレックスと表裏一体なのだけど、その連続のせめぎ合いの中から「自分の俳句はどういう表情をしているのか」「自分の俳句の良さは何か」を見つめていくしかないのだ、初めてそのことに気づけた気がします。

脳を空っぽにして、別のところに飛んでいく

これも30周年記念号に少し書きましたが、最近は豆の木のネット句会に大変お世話になっています。

正統派からアナーキーなチャレンジ句までたくさんの句が毎回出ていて、見ていて「ほんとに同じ題で詠んでるのか?」と思うときも💦
それを見ているだけで楽しい。

また、そんな懐の深さがある句会なので「どんな句を出してもいいや、出しちゃえ!」と気楽に投句できる楽しさがあります。

そして、選も意外性がある。
「きちんとした句を出しちゃったなあ」という作品をチャレンジ句を作る人が選んでくれていて「何で?!」となったり。
苦し紛れにおバカな内容の句を出しても、しっかりキャッチしてくれる人がいたり。

句会によっては「とられなかったらどうしよう」という見栄が働くことが正直あります(やはり無点は淋しいですもん)。
でも、豆の木の句会だと「とられなかったけど、まあそれはそれ」となぜか肯定できる空気があるのです(強がりでなくてね)。

そうやってカラッと思えるのは
「まず、自分の言いたいことを17音で言う」
そのことが豆の木の俳句の根本にあるからかもしれません。
だから安心していつもチャレンジできるのかな。

そして、豆の木の句会だと「?」となる詠み込みの題も多いので、題を考えているうちに脳が空っぽになって、次第に気持ちと思考が別のところに飛んでいく。
飛ぶ、その面白さこそ私が俳句を面白いと思ったスタートだった。
そのことを思い出させてくれるのが豆の木の句会なのです。
その点はかつてのリアル句会も、現在のネット句会も変わらない肝の部分と言えましょう。

豆の木30周年、おめでとうございます。
これからも幽霊部員はのんびり・マイペースに活動していきたいと思います。
よろしくお願いします😊

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