「意味のわかる俳句もあるんだね!」と言われて

「難しくて読もうって気にならない」


2015年に第一句集『揮発』を刊行したとき。
俳句関係の方はもちろんですが、知り合いなどの
「普段、俳句とは無縁な方」にもお贈りしました。
その時、よく言われたのが下記の内容でした。

「面白かった! 読んで何が書いてあるか
わかる俳句もあるんだね!」

「新聞とかにたまに載ってる俳句作品て、
なんだかわからないのが多い。難しくて抽象的で。
だから読もうって気にならないんだけど、
あなたのは言葉もわかりやすくて共感できる」

実はこれ、
結構ショックかつ複雑なコトバでした。

「え! 俳句作品って
関係者以外にはそう思われてんの?!」

その後、カルチャースクールで
複数の俳句講座を担当するようになるにつれて、
どうも他にもそういう印象をお持ちの方が
……割といる???
(生徒さんそれぞれの個性や好み、世代なども
関係あると思われます)

もちろん、そういう方ばかりではありません。
現代の俳句でも、古典的な俳句でも、
「俳句は俳句」として最初から抵抗なく
さまざまな作品を味わい、楽しんでいる方もいます。

それでも、どうやら私の周囲の意見を集約すると
タイトルのようなものが多い。

うーん……これは結構唸ってしまったのでした。


なぜ「わからないのが嫌なのか」、

そもそも「わかる」とは何か


まず、よく聞くのが「何が書いてあるのかわからない」。
そういう方の理由は下記が多いです。
①漢字が読めない
②(①とも関連しますが)季語がどれかわからない。または読めない。
 いつの季節なのかも、その意味もわからない。
③短すぎて何を言ってるんだかわからない(短歌ならまだわかる)。

うーん……
確かに俳句って「詠む」も「読む」も
ある程度「訓練」されて慣れないと
理解という意味では、なかなか難しいところが
あるのは否めません。
だから鑑賞に困ることもあるかもしれません。

他方、「理解」などしなくてもいいのではないか?
という考えもあると思います。
たとえばカンディンスキーの絵は具象ではないけれども、
見ているうちに次第に受け手の中で喚起されるものがあります。
それと同じで
「わからないならわからないなりに、
絵のように17音を眺めていれば、
おのずと見えてくるものもあるのではないか」
私などは、それでいいと思っています。
自分が好きか好きでないかくらいの
判断基準で作品を見てって、
そのうちだんだん深く入っていけばいいのでは?

「でも、それじゃ嫌なの! 
きちんとわかって鑑賞できるようになりたいの!!」

そ、そすか......(^^;

ここで整理すると、
どうも「俳句をわかりたい」人は
「内容をわかりたい」=
「自分の見ている、感じているものが
本当に正しいのか不安である」
と考えているフシがあるようです

(実際に以前、私の作品を見た数人の方から
「こう思うのだけれども正しい?」と
確認されたことがよくありました)。

境界線を超えて


俳句は不思議な世界で、長きにわたり
「作家=読者」という円環構造があります。
「座」の文芸から発祥したからこその特徴なのでしょうが、
そのことがいつの間にか、俳句専門誌以外においても

(結果的に)「俳句作家(玄人)」が「俳句作家(玄人)」
向けの作品を発表している

そんな構図を作り出しているようです。

そして、その構図は
おそらくタイトルの示すような
「普段、俳句とは無縁な方」の
俳句作品に対して抱く違和感や
(読者を置き去りにした)疎外感と
無縁ではないと考えられます。

俳句表現には作家それぞれのスタイルがあります。
わかりやすい言葉や文法で創作するタイプ。
従来の約束事や季語などから抜け出して
実験的作品を試みるタイプ。
ほかのジャンルとのコラボを試みるタイプ。その他いろいろ。

個人的見解としては、どんなタイプも「あり」です。
そのほうが表現世界が広がり、
可能性もより生まれやすくなります。
そのうえで、一作家としては常にどこかで
俳句関係以外の「読者」の存在を
胸にとどめてつくり続けたいと思っています。

一方、俳句講師としては
「わかる、わからない」は俳句に限らず
表現ジャンルにおいてはあまり重要視せず、
先述のように「自分の好き、嫌いで判断して鑑賞すればOK」と
生徒さんたちへ伝えるようにしています。

「わかりたい」「わからない」
その境界線(こだわり)を超えられたとき、
「自分が何が好きで、どんな作り方をしたいのか」
新たに見えてくるものがある。

作家として講師として、私もこの葛藤とその先を
これからも見続けていきたいと思います。

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