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ある句会の風景

その句会は大きな商店街のすぐ側で月一回、夜間に開催されている。
設立されたのは、もう20年ほどまえだったか。
最初から参加して、その後結婚や引越、そしてコロナなどがあり最近はたまに出席する程度になってしまったが、初心者だった私と私の俳句を長きにわたって育み、今も栄養をもらっている句会の一つだ。

設立当時は平日の夜、開催されている句会は私の周囲にはなかった。
「終業後に参加できる」気軽さが魅力の一つだったし、先生がいつも出席されていて、選ばれた句はもちろんのこと、無点句も含めて全句寸評があったこと、持ち寄りの句以外に席題(たいがい詠み込み)で作ることができたこと(句会開始前の提出締切まで、ほんの10~15分で1句をその場の題で捻るスリルとドキドキは毎回楽しく、いかに鍛えられたことか。私は今も席題句会が一番好きだ)など「句会に参加する魅力」がそこにはたくさんあった。
 羊蹄へシェイクスピアの台詞かな 柏柳明子

前述のように大きな商店街があるので、句会前に余裕をもって到着すると、コロナ前はドラッグストアで安売りのティッシュやトイレットペーパー、ソンバーユ等々をたびたび購入しては、それらを抱えて句会場に向かった。
チェーンのドラッグストアだから、地元にも同じ店舗はある。でも、土日の休みに人の群れの中を歩きたくないし、わざわざ混みあった駅の方まで買いに行きたくない。
ちょうど家人が同じ句会のメンバーで車で来るということもあり、ものぐさな私は「大きな買い物かご」をアテに時には夜ご飯などさまざまなものをこの時とばかりに買いこんでいた。
「こんばんは。お願いしま~す」
両手いっぱいの日用品をそっと句会場の隅に置いて着席。でも、しばらくすると必ず「あんこちゃん、庶民的♪」と大好きな先輩Sさんに見つかり苦笑されていた。

参加して随分経ってから、披講を担当するようになった。
「あんこちゃん、今回もお願いできる?」句会の主催者・Hさんのハキハキした声が選に集中する会場に響く。それに「いいっすよ」と返すのもいつしかいつものやり取りとなっていった。

リアル(ZOOMもあるかな)等の対面句会等で披講を経験した方はわかると思うけど、読み上げとは違い、自分以外の先生と参加メンバー全員分の選句を一人で読み上げるのは結構気を遣う。
披講のやり方を教わったことはない。他の句会の先輩を真似して、「自分(披講者)→会員→同人(同人歴の浅い方から長い方、主要メンバーの順番になるように)→先生」の順番に選句用紙を並べ直して行っている。それで注意を受けたことがないので、多分それでいいのだろうと思っている。

披講を重ねていくうちにいろいろ気づくことも出てきた。
声の高さ、大きさ。聞きやすいためには、やたら声を張り上げればよいというわけではないこと。むしろ「間」が大切で番号の後に句を読む前に一呼吸おくと、たくさんの句がある場合、探す余裕と印等を書く余裕を参加者は持つことができることを知った。
読む速度は最初の2、3人の選句用紙を読み上げてから、「これでいいかな? 大丈夫かな?」と何となく会場の空気から確認してから決めるようになった。逆に時間的にもっと早く読まないと進行上マズそうなときは「すみません、少しテンポアップしますね~」などと一言断りを入れるようにしたり。

怖いのが、選句用紙の俳句と番号が違っていること。こちらが間違えて特選でない句を特選と言ってしまうこと。読めない漢字があること。そして、先生の選の読み間違い。
一点目、選者の書き間違いというケースがほとんどなので、披講前に「選句用紙どおり読むので、番号と俳句が違っている場合はご指摘お願いします」と会場へ協力をお願いするようにしている。
二点目、作者にも選者にも失礼なことをしてしまったのはこちらなので、素直に明確な言葉でその場で謝る。
三点目、これも披講前に「読めなかったり、間違って読む漢字があると思うので、その時は皆さん教えてください」と伝えるようにしている(または先生の隣に座っている場合お聞きする)。
四点目、素直に明確な言葉で先生と作者にその場で謝る。

披講が終わったら「ありがとうございました。なお、披講者のミスで読み間違いなどがありましたことをお詫びします」という言葉をいつしか自然と添えるようになっていた(大体、読み間違いはいつも発生してしまう。勉強せねば……)。
披講をすることで「今回の句会がどう進行していくのか、一回一回が勝負」というメンバーの緊張感と期待をより切実に感じ取るようになり、「句をつくったひと」「句を選んだひと」の両者が幸せに結びつく場所が句会なんだ
という思いが次第に深まっていったように思う。その結果、披講時に添える言葉が生まれていったような印象が顧みるとある。
また、声に出して実際に17音を読むことでさまざまなリズムや言葉を体感し、自分の作品づくりの栄養にしていくことができた。

披講中あるいは終わった後に、必ず仕事で遅れてきた家人がそーっと入室してくる。誰にも見つからないように、この空気を邪魔してはいけないというような静けさで。私は読み上げながら目で席を示す。そして、家人の選が終わった頃合いを見て、先生の評の切れ目に追加で披講をする。

長く一人で参加していた場所に、自分以外の人と家族になって参加するようになり、句会の風景もいつか変化していた。そして、自分の俳句も。

句会での先生の評、作品に対する添削は、自分が俳句を伝える立場になってから、より臨場感ある内容として響くようになった。
この句会は人数は多いけど、先生との距離は物理的にも精神的にも近い。
だから、先生の選を身近で目にできる機会も多い。
「そうか、こういうふうに直すと句は息を吹き返すのか」
「ここをこう指摘すればよいのか」など先生の言葉やまなざしから気づくことは多い。
よく考えると今までも先生の言葉や考えに影響を受け、自分の言葉や型をつくって俳句作品を詠んできたのだけど、伝える側に立つと先生の言葉や考えを俯瞰で見たり、違う意味を掴むことができるようになった。そこから自分の作品も自ずと変わっていったと思う。
 数へ日の小劇場の軋みをり 明子

この句会は前述のように全句に先生の寸評をいただけるので、無点であってもどこがマズかったのかのヒントを得ることができる。
貴重でありがたい場と機会だ。
無点句のほうが次への成長のための飛躍が隠れていることが多い。
だから、採られた句以上に無点に対する先生の意見を聞きたい。
句会によっては無点句をあけないところもあるが、私自身の講座や句会では必ず無点句も含めて全句を取り上げるように努めている。
そして、今後もそうありたいと思う。

最後に。この句会はいつも楽しいが、後の飲み会も本当に楽しいのです。
次々に追加されてはたちまち干され座敷に転がる徳利や焼酎のボトルを懐かしく思い出す。
現在はコロナで参加は厳しいが、また参加できる日が早く来ればと願っている。
 たくさんの足飛び越えて忘年会 明子

この句会のもつ「座」の魅力。
句会と飲み会(懇親会)の双方にある「互いに距離をもちつつ、人と触れ合うぬくみ」を味わいたくて、いろいろな人を見たくて会いたくて、私はこの句会に行っているのだと思う。
以前より参加する機会はめっきり減ったけれど、これからも座の一人としてよろしくお願いします。

※文中の俳句は、句集『柔き棘』(2020年)より。いずれもこの句会から生まれ、発表したものです。

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