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俳句を書くこと、誠実であること:『オルガン』28号を読んで

終らないブレインストーミング

最近、『オルガン』28号、29号をまとめて読む機会を得ました。
それぞれ感慨深い内容で、「読むこと」「詠む(書く)こと」双方についてさまざまに思い巡らすことができ、そのことは私に豊かな時間をもたらしてくれました。
ありがとうございます。

今回、28号について少し感想を書いてみようと思います(以下、敬称略)。
まず、俳句作品より(一人一句)。

◆感銘句
ひとの手の余つてゐたる朧の夜 宮本佳世乃
三月の名前が消えるまで抗す  田島健一
亡命やあまねく映る石鹸玉   鴇田智哉
星のない土が耕されて眠る   福田若之

(『オルガン』28号、「俳句」、pp.2-9、2022より)

『オルガン』は4人の俳句作家による俳句誌。
俳句作品以外に、メンバーを中心とした座談会や対談、連句等で構成されています。
私は毎号読んでいるわけではないのですが、読むたびに「詩作に対するブレインストーミングの場」という印象があります。

メンバー全員が「ここにある言葉・風景・感情」をいったん受容・咀嚼したうえで、ある時はそれらを違う形で作品として蘇生させ、またある時は「ここにある」こと自体を検証し別のものへ転換させる。その果てにできた表現を17音として現出させている。

そんな繰り返しの向う側を見据えて奏でられる17音。
『オルガン』が常に宿す流動体のような軽やかさと透明感は、「見たことのない俳句」を目指す彼らの終らないブレインストーミングの賜物なのかもしれません。

書きながら「書かない」

28号の記事の一つに「座談会 オルガンを解くー宮本佳世乃ー」があります(同号、pp.10-25)。これが個人的にとても沁みる内容でした。

詳しくは実際にお読みいただきたいのですが、かいつまんで触れると、宮本佳世乃の第二句集『三〇一号室』の作品を読み解きつつ、宮本の俳句創作の背景や周辺を探る、あるいは本人が語るという内容がメインです。

今回、この座談会を読みながら、私(読者)自身も「自分がどういうふうに俳句と出会い、いつ俳句を「自覚」し、自分の表現として選び、表現方法を考え始めたのか」といった過程を顧みることができました。
その振り返りはきっと今の宮本には必要だったもので、期せずして私(読者)もその恩恵を今回受けることができたことに感謝しています。

座談会中、特に心に残った点は次の3点です。
・「誰と」俳句の時間や空気を共有するか
・体験や現実を作品にすること
・言葉としてあえて「書かない」

・「誰と」俳句の時間や空気を共有するか
これは座談会内で「誰と一緒に俳句をするか」という小見出しにもなっていますが(同号、p.13)、どんな作家であってもその個性の誕生と形成を考えた時に避けては通れない肝の部分です。私自身、この自覚はつくるうえで大事だと常々考えているので、自分の体験を重ねつつ共感しました。

俳句は「読まれて」「詠ま(書か)れて」、その二つが同時に効力を発揮したときに成立する表現手段だと私は考えています。ゆえに「俳句創作(または句会)の時間や空気を共有する相手が誰であるか」は作家の精神的土壌に後々まで大きな影響を与えます(それも初学の頃ほど重要)。
誰の作品を見て目標とするか。または憧れるか。
「誰に採ってもらいたい」と思い、つくるか。
その意識があるのとないのとでは、その後にできてくる作品は明らかに変わってくる。型や季語についての捉え方も違ってくる。

本項は宮本の作品の変遷を考える話題の中でさほど大きく取り上げられているわけではなないのですが、「変遷」に対する捉え直しを行う意義を端的に示しており、興味深く読みました。

・体験や現実を作品にすること
これは3点目とも関わりますが、「実際にある(あった)こと」を題材としていても、本当にそのことをそのまま(あるいはある程度生かして)詠んで(書いて)いる場合もあれば、そうとも限らないことも俳句創作では多々ある。
それよりも重要なのは、題材やエピソードをきっかけに季語の力を得て「17音による世界をかたちにすること」。それが実際のままでもフィクションでも。

そのことによって、時に人(作家)は受け入れがたい現実を精神的に受容できるようになるのではないか。

そんな痛みを伴う感情の浄化を俳句は宮本自身へもたらしているのではないか。その結果、読者自身も宮本の作品から限りない痛みとともに不思議ややすらぎを享受できるのではないか。

そんなことを思いました。

・言葉としてあえて「書かない」
座談会中、宮本本人の発言として下記があります。


「ある部分、見たものや感じたものを、そのままでは詠まないぞという意識はありますね」

(『オルガン』28号、p.21、2022より)

作家の決意がよくわかる部分です。
そして、見たり感じたものから抽出(省略)して表現する俳句手法から一段超えて、「そのうえでさらに言語化しないことで、書かれていないことを映し出す」手法が俳句に対する現在の宮本の姿勢なのだということが伝わってきます。

「書けるのに、あえて書かない」
それはとても厳しく、困難な道、選択です。
「書く」ことにより、何かが損なわれる怖さを知っているから。そして一度損なわれた言葉はもう元に戻ることはなくて、生の言葉よりももっとタチが悪くなることもよく知っているから。

あるいは、書きたくても現実の言葉では書けないことがある。
現実の言葉の速度や器では精神に追い付かないものがある。
だから、あえて書かない。沈黙で「語る」。あるいは示唆する。

思えばこれまでの作品でもずっと宮本本人はその道の方向を歩いてきたと思いますが、今回、座談会というかたちで自分の創作過程の一端を読者に垣間見せたことにより本人の意思がますます確固としたものになった印象を受けました。

座談会の最後、福田が次のような発言をします。

言葉っていうのは、それが意味するものごと自体ではない。そういう意味で、言葉はフィクションです。(中略)信じながら、疑いながら、騙しながら、僕たちはフィクションを書く。(後略)

(『オルガン』28号、p.25、2022より)

地に落ちてすぐ消える雪のような儚い言葉に私たちは「何か」を託し、あるいは託さずに消えゆく様へまなざしをおくりつつ、書き(詠み)続ける。
福田の発言は宮本の決意に呼応し、この座談会のラストに相応しいと思います。

今号の『オルガン』を読んで、「言葉や表現に対して「誠実」であろうとする態度」をこれまで以上に強く感じました。
今、俳句として書けること、書けないこと。
使える言葉、言葉にすると嘘になる言葉。
そんなものと常に向き合った痕跡が背後に感じられる作品や発言。

自分にとって「俳句作品をつくるということはどういうことか」
繰り返し、問いかけてくる一冊でした。









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