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【小説】業務上における過失


「迷いの霧?」

 狭い工房には、アルトリア・キャスターと、オベロン・ヴォーティガーンと、工房の主人であるダ・ヴィンチが顔を突き合わせている。ダ・ヴィンチは眉をひそめた。

「そう、迷い霧。」

 今度はアルトリアが眉をひそめる。

「でも、私たちはなにも見ませんでしたよ。ねえ、オベロン。」
「そう?俺はよく覚えてないけど」

 アルトリアが空気を読め、とでも言いたげに顔をしかめた。
 ダ・ヴィンチがひとつ咳払いをする。

「きみたちは、なんていうか、空想の存在に近いからねぇ…。影響が少なかったんじゃないのかな?」
「そういうこと正面切って言っちゃうんだ〜!バカと天才は紙一重ってヤツ?」

 一同の間に沈黙が漂う。天使が通るって、こういうことなんだろうか、などとアルトリアは考えた。

「まあとにかく、問題は」

 ダ・ヴィンチがひと呼吸置いて続ける。アルトリアはゴクリとつばを飲んだ。オベロンは黙ったままである。

「藤丸の生体反応が3分間くらい消えたんだ」

 なんだって?殺しても死なないようなやつが3分もバイタル計測不可になっただって?
 オベロンは食い気味に尋ねる。

「本人は?」

 ダ・ヴィンチはため息をついた。

「何も見てないです、だって。」
「絶対なんか見てたやつじゃん!」
「あ、やっぱりそう思う?」

 アルトリアは激しく頷き、オベロンは呆れたように短く息をついた。

「迷いの霧がヒトに幻覚や幻聴を見せることはしばしば報告されてるから、藤丸が何かを目撃していても不思議じゃない。でも、それを話さない理由のほうが気にかかってね。」
「世話焼きだな」
「一応ね?」

 極個人的なことだったんじゃないの?、とオベロンは答えた。

「そんなに知りたいなら本人に直接確認したほうが手っ取り早くないです?」
「そうしたいんだけど、強引なことをしたら余計口を割ってくれなさそうでさ。」
「そもそも君はなんで知りたいわけ?」
「うーん…………興味?」

 バツが悪そうに言うダ・ヴィンチに、オベロンは思いっきり「やっぱデリカシーってやつが足りないんじゃないの?」と悪態をついた。


ある過ち


「ごめんなさい。まだ話せません。」

 わたしはダ・ヴィンチちゃんに向かって頭を下げた。

「何か理由があるんだね?」

 ダ・ヴィンチちゃんに呼び止められて、『迷いの霧』のときの話を持ち出されて数分。
 何か見たのなら話してほしい、それが君の心に深く刺さっているかもしれないから、と説得されたが、わたしは返答に困った。

 あの日、あの場所で見ていたのはオベロンの夢だ。わたしはオベロンの夢に迷い込んでいたらしい。
 ここまではまだ良かった。だが報告できないのには理由がある。

「…ごめんなさい。」

 ダ・ヴィンチはわたしに隠し事をしている。

 数時間前、いつものように周回メンバーに組み込まれていたアルトリアがわたしに耳打ちをしていたのだ。
 「ダ・ヴィンチちゃんが『迷いの霧』で何を見たのか知りたがっている」、と。
 わたしが目を丸くしてアルトリアを見ると、アルトリアは困惑したように続けた。
「興味だって言ってたから、あんまり気負わずに雑談気分で話せばいいと思うけど、でも、」
 アルトリアは言葉に詰まったようだ。
 本当に、彼女にはこんな顔ばかりさせている。オベロン・ヴォーティガーンとのすったもんだの影響を一番受けているのはアルトリアだろう。ごめん、アルトリア。でも9割方オベロンが悪いと思う。
 アルトリアは周囲を軽く伺ってから、わたしの耳元に口を寄せる。
「バイタルが消えたって話、聞いてる?」
 わたしの心臓が一瞬止まったような気がする。思考も真っ白になって、秋の風が額を冷やしていくのを感じた。
 わたしは慎重に首を振った。
「うそ!?聞いてないの!?」

 ダ・ヴィンチちゃんがわたしに隠し事をしている以上、「興味だ」と言ったらしいことを、純粋に受け止めるのは難しかった。天才の単なる興味は凡才にとっては割と手に負えないし、天才の搦手は読めないから対処しようがない。
 —もし、必要以上に大袈裟に受け止められてしまったら。
 —こんな、個人的な事情にまで首を突っ込まれてしまったら。
 
 それにもう、終わったことだ。

 蒸し返されて嫌な気持ちにはなりたくなかった。ましてや相手はダ・ヴィンチちゃんだ。オベロンに蒸し返されても嫌な気持ちになるに違いないのに、第三者なんて殊更腹が立つに違いない。だって間違いなく「あの一言にそんなに時間がかかるなんて」と思われるだろうから。

 ダ・ヴィンチちゃんは残念そうな顔をして、気が向いたら話してくれたまえ、私はいつでも歓迎するよ、と言い残して去っていく。

 うん、これでいい。多少傷つけるかもしれないけど、こっちのほうが多分誠実だ。

 バイタル反応の消失。オベロン・ヴォーティガーンの真っ白な夢。「一緒には行けない」と確かに感じた、あの感覚。――わたしが一体どこへ迷い込んでいたのか、その予測が確信に変わる。

 最期のその後に、彼が見続けている夢。
 そうだ、間違いなく。あの夢は、奈落に墜ち続けている彼が見ている夢だ。わたしの最期を知っている彼の夢へ、迷い込んでいたのだ。どういう理屈なのか皆目見当はつかないが、未来の彼が後悔している心境をありありと見せつけられてしまった。

 わたしは呆然自失の状態で廊下に立ちすくんでいる。

 あの日見ていたのは、わたしがこれから迎える結末のあと、わたしを忘れないでいてくれた彼の夢。
 わたしを置いていくことができなかった彼の夢。
 置いて行きたくなかった、彼の後悔の夢。
 わたしの結末を呪い続けた、彼のこころのゆりかご。

 わたしの頰を涙が伝った。
 心臓だけが逸っていた。
 どこまでも続く廊下が、わたしの行く末を物語っていた。
 光が差し込む廊下の先が見えないのが、わたしの最後を明確に突きつけていた。

 ある事実に気づいたとき、わたしの頭は強く殴られたような衝撃を受けた。夢で聞いた彼の言葉と自分の発言が子細に思い出されて、わたしはどんどん青ざめていく。

 ―わたしは選択を間違えた。告げるべき言葉を間違えた。

 他に言うべきことがあったのに、それを見失ったまま終わらせようとしていた。いや、もう終わったことだと背を向けていた。
 それなのに「これが正解だ」と自己満足し、挙げ句何も言わない彼のせいにして。何も言わないのをいい事に、もう終わったことだと決めつけて。

 彼がわたしに何かを望んでいたという事実が、わたしがそれを叶えられなかったという不甲斐なさが、最後の最後で、肝心なところで間違えたわたしの過失が鈍く光って、わたしの首筋を撫でていく。こんなにも痛い。こんなにも自分の愚かさを、穴があったら入りたいくらい恥じている。
 忘れることもできる。「そんなことは覚えていない」と嘘をついて逃れることもできる。今なら、自分の過失に気づかなかったことにできる。——そんな卑怯な自分よりもずっと勝っているのは、どうしてもやりきれない、どうしても手放せない、そんな執着だった。

「どうして?」

 口にした言葉は自分へのものか、それとも彼へのものか。
 この執着心は一体何なのだろう。いっそ責めてほしいと思ってしまうのは、自分を可哀そうに思っているからだろうか。

「だから言ったのに。わたしは必ず忘れるって。伝えていなかったことすら、忘れるんだって。」

 言葉と一緒に涙が溢れてくる。視界がぼやけて、涙がボロボロとこぼれ落ちてから、またすぐにぼやける。
 オベロンのせいにしたかった。嘘を重ねて、「あのときの発言はこういう意味だったんだ」と補足説明したかった。彼が言えなかったのがわたしのせいであるように、わたしが言えなかったのはオベロン・ヴォーティガーンのせいであると、責任転嫁したくてたまらない。こんなつまらない言い訳すら聞いてほしいと思ってしまう。

「ほんとにバカ、言えばいい、馬鹿にすればいい!『おまえは本当にどうしようもない!思い込みが激しくて自己陶酔にすら気づかない愚かなやつだ!』って!」

 「何も聞かないでほしい」、「でも弁明の機会は欲しい」。矛盾する感情がごちゃ混ぜになって、絵の具を粘土に垂らして捏ねているかのように、自分の心を歪に染めていく。いくら捏ね回して言い訳を足したところで、綺麗な色にはならなかった。
 わたしは再び打ちひしがれて、ぼんやりと床の先を眺めている。
 叫び声を聞いた何人かのスタッフが、何事かと駆け寄ってくる。わたしを案じて掛けてくれる言葉も遠くでくぐもって鳴るだけで、何も染み込んでこない。

 —ああ、それでも。…それでもなぜか愛おしかった。憎めなかった。一つも腹立たしい気持ちにはならなかった。いや、自分に対してはもちろん憤っているけれど。
 わたしはどうすればよいのだろう。もし機会があるとするなら、わたしは何から話せばいいのだろう。きっと彼の前では素直にはなれない。100%純度の謝罪なんて、到底口にすることはできない。真っ先に言い訳を並べるか、「君が悪い」と言ってしまうか。
 でも、きっと逃げてはいけない。わたしの言葉がどんな結末を招こうと、対峙することから逃げるのは、今までのわたしのなけなしの誠実さすら上書きしてしまうだろう。
 だから、わたしは——、わたしはあの夢を否定しよう。今度こそ、伝えるべきことを伝えるために。

 それこそが、あの夢に対する、本当の答えなのだから。




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