ヘッダー200306

国は神ではない。そして灘区は紙がない。

新型コロナウィルスショックで店頭からトイレットペーパーが消えた。オイルショックの狂騒が50年の時を越え再来するとは思わなかった。当時ウチの家は比較的冷静だった。なぜならトイレットペーパーではなくちり紙を使っていたからだ(当時の灘区はまだ下水道が全世帯に普及しておらず、我が家はいわゆるボットン便所だった)。しかし、石油不足とウイルス蔓延という全く違う現象の帰結がトイレットペーパー不足というのがおもしろい。全ての道は糞に通じる。すげえなトイレットペーパー。

新型コロナウィルス騒動を見ているとかつての口裂け女を思い出す。マスクを外して「わたし、キレイ?」って言うアレだ。実体のないものが噂になりやがて恐怖の対象になる。元は子どもたちの口コミが発端だったが、神戸新聞に「口裂け女、国道2号で兵庫県に侵入か」と言う記事が出た時は流石にびびった。あの記事はなんだったんだろう。今はSNSを通じて大の大人までもが右往左往している。これだけマスクをした人が多いと、女性は全員口裂け女ではないかと思ってしまう。そのうちマスクを外して「わたし、コロナ?」とか言い出すんじゃないか。

とにかく社会全体がパニック状態になっている。国までもが根拠の薄い方策を打ち出し、県、市がそれに従い、市民がそれに振り回される。自治はどこへ行ったのか。自治というと自治体などのように行政的なニュアンスが強いけど、元々は「自分で自分のことを処置すること。社会生活を自主的に営むこと」(広辞苑)とある。そう、自分で判断すればいい。

日々の暮らしの中に自治の精神がないからパニックになる。あるいは周りに流される。そういう事を神戸市民は阪神淡路大震災で思い知ったはずだ。忖度はダメだよねなんて言いながらテメエが忖度してるじゃねえか。何やってんだ全く。これでは「振り出しに戻る」だ。

全国でマラソン大会やスポーツイベントが相次いで中止になる真っ只中、神戸市最大のアスリート草レース六甲縦走キャノンボールランはもちろん開催する。参加者からは開催に否定的な意見はほとんどない。むしろ「キャノンボールは中止しないで」という声がほとんど。というか中止にする根拠がない。あるのは「自分で自分のことを処置する」ということだけ。

ゼッケンイラストマップ

過去のキャノンボールではこんなこともあった。神戸市内に大雨洪水警報が出された時も中止にせず開催、道路が冠水しても参加者は笑いながらバシャバシャと通行止になった車を追い抜いていく。キャノンボールのルールに「主催者に文句を言わないでください」というのがある。意訳すると「このレースで身に降りかかる災いは全てあなたが選んだことですよ。自分の身は自分で守ってください」、要はあなたたちはお客さんではありませんということだ。もう一つ「必ず無事生きて下山して下さい」というのもある。主催者任せではなく、全て自分で判断すること、それが生きるということだと。

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これはある種、アナキズム的な発想なのかもしれない。主催者を国家に置き換えてもいい。なんでもかんでも主催者に任せていると楽だ。おまかせしていれば、ある意味では何も考えなくていい。でも気がつけば死んでいたということもありうる。キャノンボールで夜中に六甲山を走っている時、主催者のことを考えるだろうか?いや、何を飲むか、ちょっと寝るか、先へ進むか、寒さはどうか、どうやって死なないようにするかを考えている時は主催者の恩恵など全く受けていない。それよりも真っ暗な夜の山道で、温かいスープや酒を振舞ってくれる善意のエイドや、参加者同士の声の掛け合いが最大の恩恵になる。

「アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」(鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗 鶴見俊輔コレクション2』)

もし、自治やアナキズムを体験したければ、六甲縦走キャノンボールランや姉妹イベントの東神戸マラソンに出てみて(ランナーでもエイドでも)ください。あーこういうことかってわかりますよ。

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