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改めまして、

残すところあと2週間、今の仕事の終わりがやってくる。
この約1ヶ月は、生徒や保護者、講師たち、この業界で関わる人たちへ最後のご挨拶をさせてもらっている。
ショック、悲しい、寂しい、嫌ですなど、日々様々なリアクションを受け取りながら、彼らにとって自分がどんな存在であったか、どれほどの影響を与えていたのかを深く考えさせられ、認識させてもらっている。
とても有り難く、有意義な時間に感謝が溢れる毎日。
そんな中、先日とある生徒へ辞めることを伝えるとひどくショックを受け、受け入れられずにいた娘に対してその子のお母さんが言ってくださった一言。

「先生は私たちにやりたいことを諦めない姿、挑戦する姿を見せてくれてるんだよ。」

思わず涙が出そうになった。

今回の辞職にあたり、その背景に様々な理由があった中でこれが最大の理由であったこと。

日々生徒へ、
「やりたいことは何でも叶う。叶えられるのは親でもなく他人でもなく、自分しかいない。だから諦めず、自分自身を信じて。誰もが自分の望む人生を創れるから。誰しもがその力があるんだよ。」

そう伝え続けてきた私自身が、いつのまにか私の心に背いていたこと。
そしてこれからは自分の心に正直に生きると決めたこと。

伝わる人には伝わっている。
強く心を打たれた瞬間だった。
嬉しさ以上のこの感情は、言葉で表すことができなかった。



日々愛に触れ、
私の心は愛に満ちている。

私と関わってくれた全ての人へ
本当に、本当に有難うございます。



そんな中、私はというと、次にやることも決めていない段階で退職を決めたわけだが実はこっそり、自分の人生の次のステップに向けて動いている。
楽しみだ。
人間、何か新しいことを踏み出す時というのは不安や心配に襲われがちだが、でもそれは人間の性であって、大切なのはどれだけ自分を信じられるかだと思う。
自分の心に従った決断をした自分自身を。
過ぎた過去に執着しても、まだ来ぬ未来に不安を抱いても仕方がない。
そこから生まれるものは何もない。
だって私たちは今この瞬間しか生きられないのだから。
この瞬間に集中していれば、この瞬間を精一杯生きていれば、そもそも悩みや不安なんて湧いてこないのだ。

そんな私はというと、何かを捨てたり、辞めたり、大きな決断をして次に向かう時、全くもって不安はない。
なぜなら常に私の心に従い、心がそれが正しいと感じているから。
不安や心配がゼロと言ったら嘘かもしれないが、
(生活費のことが頭をよぎったことがあるから)
でもそんなお金に振り回される生き方が嫌だからこそ、そのような不安をかき消すために、動くのだ。

さて、そんなこんなで今まさに、人生の第二の大きな転機を迎えようとしている私。

ここで改めて、自己紹介をしてみようと思う。

生まれも育ちも青森の34歳、独身。
これまで住んだところは青森、群馬、三重、島根、福岡、東京、オーストラリア、そして現在は生まれ育った青森に戻って暮らしている(また移動予定)。

遡ること幼少期。
4人兄弟の二番目に生まれ、物静かな兄といつも周りを気遣って立ち回る妹、そして自由きままな弟の間で一際自己主張の強い長女だった。
母からはいつも”わがまま”と言われ、自分はわがままで自分勝手なのかと母の言葉を素直に受け取り、少なからずどこかでそう信じていた。
でもそれに反して、”自分はただ自分の心に正直なだけ”、そんな風に考える私もいた。
一際自分の”想い”が強かった私は、いつも自分の好きなことややりたいこと、言いたいことを全面に出し、思い立ったら即行動、そんな毎日を送っていた。
見知らぬ人に話しかけるのは朝飯前で(朝に縁側に座っておにぎりを食べながら道ゆく中高生に話しかけていたから本当の意味では朝飯中)、親戚や家族同士の集まりの中では大好きなおばあちゃんのモノマネをして周りを笑わせてみたりふざけたりと、自然と場の空気を変えるようなムードメーカーのような存在だったと記憶している。
兄が物静かだったのも、妹が周りを気遣い立ち回っていたのも、おそらく間にこのような妹、姉がいたことが強く影響しているのかもしれない。
ちなみに弟は9つ離れていたので、もはや兄弟というよりも、保育士をしているような感覚でいつも可愛がっていた(弟が中学生になる頃までは)。
弟が生まれ、世話をし始めたちょうどこの頃から、子供が好きだと自覚し始め、”保育士”という仕事に興味を持つようになった。
そんな勢いのあった幼少期の私も、小学校へ入学し、一定のコミュニティや組織に属して社会生活を送るにつれて、少しずつ変容していったように思える。
社会性や協調性を学び、人ととの関わりの中で自分を成長させることができるようになった反面、社会の規範やルール、規則に縛られることで生きづらさを感じるようになっていった。
周りと同じでなければならないという日本特有の同調圧力なのか、人と違うことをしたり違う意見を言ったりすると異様な目で見られたり「変わっている」と言われたりする”出る杭は打たれる”文化によるものなのか。
自分の心で感じたことを素直に表現したり、ストレートにモノを言ったり行動に移したりしていた私は常に周りから、「変わっている。人と違う。」と言われてきた。
正直、これに関しては特に何の感情も湧かなかったが、”普通”って何?
何が基準で、何と比べて私は変わってる?という疑問はあった。
そして同時に、幼い頃から同じ保育園で育った幼馴染の友人たちが中学校に上がり、非行に走ったり荒れ狂ったりする姿を見て、どこでそうなってしまったのか、一体彼らは何を抱えているのか・・・
同じ人間として生まれたのに、人がそんな風に変わってしまうのはなぜなのか、どこに原因があるのか、どうしたら良い方向へと変わっていくだろうか・・・
そんな疑問を抱きながら、自分が教師の立場だったら彼らとどう向き合うだろう、などと考えていた。
その時から、保育士から”教育”の現場に興味を抱くようになっていった。
彼らのために何かしたいと強く思っていた。

そして小中学校を通じて感じたこの”生きづらさ”が後に、大人になってからも私の心の中に居続けることになる。
幼少期から”なぜ?”が多かった私は常に何でもかんでも疑問を抱いては大人たちに質問していた。
質問責めをする私に両親や先生たち、当時私と関わる大人たちは対応に苦労したに違いない。
それでも自分の中で落とし込めないことは行動に移せず、心がNOということは出来ない私がいた。
そして私の質問に対して納得のいく返答をくれる大人が当時ほぼいなかったことに憤りさえ感じていた。
”なんて無責任なんだ。自分は絶対こんな大人にならない。”
そう強く心に誓いながら。
そんな幼少期からの強い”想い”というのが私の中で”信念”として確立されていき、そして今でも自分の中で大切な信念として在り続けている。
年を重ねて経験を積むにつれ、まるで確かめ算をしているかのようにそれらの価値観が自分の中で確たるものとなっていった。
幼い頃に大切にしていた価値観が今でも私の生きる上での軸となっている。

もう一つ、初めて家庭の外側に出て学びを深める中で、大きな変化があった。
それは、家庭内での自分の立ち位置を認識し、周りの様子を伺えるようになったことだ。
仕事で帰りの遅い父と仕事をしながらも毎日4人の子供たちの育児に奮闘する母。
弟が生まれる前までは特に、幼い兄、私、妹全員をお風呂に入れたりご飯を食べさせたりと、それらを全て一人でこなす当時の母の苦労は想像を絶するものだったに違いない。
当時は母親に”ヒステリック”というレッテルを貼り、母親の苦労を理解できずにいた。
そんな母の苦労も知らない私はいつも自分の”やりたい”を優先し、母がどんなにイライラしようが怒ろうが気付けていなかっただろうし、気にもしていなかっただろう幼少期。
それが小学校へ上がるにつれ、母の機嫌を日々伺うようになり、なるべく母を怒らせないようにと家事の手伝いも学校の勉強も励んでいた。
それが母にとって十分だったかは分からないが。
それでも「宿題は学校で済ませて来なさい。分からないことは自分で調べるか学校で先生に聞いて来なさい。家では家の手伝いをしなさい。」そんな母の言いつけを守っていた。
そして私たち子供たちへ一度たりとも「勉強しなさい。」と言ったことのない母。
しっかりと自学習する癖はついていたようで、おかげさまで勉強には苦労することなく高校、大学と進学できていた。
ちなみに父はというと、”The昭和の男”といった感じで口数が少なく、勉強に関してはノータッチで何も言わなかった。
そんな学生時代であったが、勉強や部活動、どんな場面においても一切兄弟間で比較を用いることのなかった父母のおかげで家庭内での劣等感はなかった(弟が生まれるまでは。歳の離れた弟は母からも父からも一際可愛がられていたから)。
が、学校内では常に劣等感を抱いている私がいた。
なぜならいつも行動を共にしていた友人の家庭が驚くほど円満で、そして裕福だったからだ。
一方で私の家庭はというと、私が中学時代から両親の喧嘩が絶えず、酷い時は家庭内暴力、母の家出が突発的に起こるような環境だった。
日々何か起こるのではないかという不安に駆られながら迎えた思春期は、私のこれまでの人生の中で精神的にとても不安定な時期だった。
そして日々、「うちは貧乏だから。」が口癖の母。
「他所は他所。うちはうち。」という母の言葉を耳にするのもうんざりしていた。
そんな劣等感を拭えずにいた中学、高校時代、自らが勝手に作り出した他者との比較による虚しさやいつまでも満たされることのない感覚をどうやったらなくせるのか、分からず日々もがいていた。
きっと私は死ぬ時にこそ、自分自身に対して満足するんだろうな、その瞬間がベストな自分と感じられるんだろうな、いつもそう思っていた。
それまでは永遠に成長の過程で、死に際に良い人生だったと振り返り幸せを感じられるのだと、それが人生なのだと、そう信じきっていた。

高校生時代から始めた飲食店のアルバイトを大学の終わりまで、約7年間続けながら、大学生になってからも様々なアルバイトを掛け持ちしながら経験し、社会勉強を重ねていった。
初めてのアルバイトでは、”間違っていることをしていないのに謝らなければいけない”経験や”お客様は神様”と言わんばかりのホスピタリティを学ぶことを通じて、それまでの”白黒ハッキリしないと気が済まない”私は世の中のグレーを知るようになった。
ここでも日々、店長とぶつかったり時にはお客さまに物申したりと自分を曲げられずに苦労しながらも、自分に起こること全てを学びへと変えていった。
飲食店、家庭教師、アパレル、ねぶた祭りの売り子等々、自分が興味のあることは何でも挑戦した学生時代。
おかげさまで、元々誰にでも物怖じせずに話しかける性格にプラスして、さらにコミュニケーション力が高まっていったように思える。
仕事でもプライベートでも、常に人と関わることが大好きだった。
なぜなら出逢うすべての人から学びがあり、様々な人の考えやその人の背景を知ることは私にとってとても興味深いものだったから。そして何よりも、人との関わり合いの中で自分自身を成長させられることができていたから。

そして時は流れ、就活の時期がやってくる。
この時興味があったのはブライダル業界。
ブライダルドレス一択だった。
当時、自分の故郷、青森には特に思入れもなく、むしろ好きではなかった私は青森なんて出てやる!と県外に目を向けて就活をしていた。
青森だとブライダル企業が数えるほどしかなく、選択肢が少なかったのも県外に目を向けた理由の一つだった。
そんな中、ある時出逢ったブライダル企業に一目惚れ。
会社説明会での社長の言葉に同感し、ここで働きたい!と強く思ったのだ。
まさかのドレスではなくブライダルジュエリーの会社だったが、一度心が動かされてしまったらそんなのはもう関係ない。
ということで、他に目を向けることなくそこ一択、一点集中で選考に力を入れた。
東京に本社を置く企業だったが選考は全て仙台で行われていた。
そんな中、第二次、第三次面接のために日帰り(バス)で仙台へ向かったある日。
面接が無事終わり、選考で知り合い仲良くなった子とランチをしようと仙台駅の中のカフェで一息ついていたところ、惨事が訪れた。

面接当日は2011年3月11日。
そう、東日本大震災が起こったのだ。
当時のことを振り返ると長くなるので割愛するが、その経験が私のその後の人生の指針を大きく変えるものとなった。
何とかその場を生き抜き無事に青森に戻った私は、地震も津波も起きにくい青森、起きたとしても被害の少ない青森にいて、家族の近くにいようと考えを改め、方向転換したのだった。
とはいっても、ブライダル企業に勤めるにも選択肢は狭いし、何よりもあの一目惚れした企業に入りたい。
震災により店舗縮小、選考枠も縮まり、結果不採用となったが諦めきれずにいた私は、次の機会がやってきたらまた受けよう、青森の支店が求人を出したらまた応募しよう、そう心に決め、親にもそう伝えていた。
そして一旦ブライダルの夢を横に置き、それまではどこかの企業に就職して親に恩返ししようと考えていた。
そんな中、大学の就職支援課からたまたま勧められたとある(誰もが知っている)自動車会社の営業職を受けることに。
当時、車好きだった私は”車好きだからいっか〜”なんて軽い気持ちで応募。
面接でも緊張しない(むしろ楽しんでしまう)私は難なくお堅い圧迫面接を潜り抜け、採用。
初の営業職。車は好きだったが眺める専門だったし全くもって知識のない私は日々カタログを眺めるも、専門用語も多く細かい情報量にてんてこまい。
とりあえず来店されたお客さまと話をし、持ち前のコミュニケーション力だけで車を売っていた。
ただ、お客さまに迷惑が掛かることだけはないよう、分からないことは分からないと正直に、「上司に聞いてきます!」「今調べます!」と言いながら時にはお客さまと一緒にカタログ見ながら調べたりして、常に誠実であることだけは心掛けていた。
おかげさまで新人一年目、同期の中でトップの成績だったようだ(数字には無頓着の私なので表彰されて気付く)。
その時自分にできることを精一杯やる、これが当時の私のモットーだった。
そしてこんな知識もスキルもまだまだなひよっこの私に対し、「あなただから買った」と言ってくれるお客さまがほとんどだったこと。
これはかけがえのない財産となった。

そしてまもなく、一年も経たないうちにあのブライダル企業が求人を出したのだ。
チャンス!今だ!と早速辞表を出す私に心配する上司。
次が決まってからでいいよと言われるも、心が動いてしまったらそれ以上続けられないのが私の性。
辞職を伝え、退職。
(まさかの二次面接で落ちるとはこの時は予想していなかった・・)
一次面接があまりにも良い感触だったので安心していたがまさかの不採用。
結果に落ち込み、悔しさのあまりにライバル会社に就職を決め、転職。
”想いをカタチにする”というコンセプトに惹かれ、オーダーメイドのブライダルジュエリーについて学び、未経験ながらもデザインに奮闘。
日々様々なお客さま(カップルやプロポーズを試みようとする男性)のお話を聞くのは愉しく、それぞれのストーリーに合わせてリングを創り上げるというプロセスも愉しく、とてもやりがいのある仕事だった。
が、そこで求められるのはブライダル目的で来られたお客さまに応えるだけでなかった。
宝飾業界としての売り上げも必要とされた。
業界の噂は事前に聞いていたしある程度予想もしていて、自動車販売でも”ノルマ”はあったが、やはり宝飾業界となると売り上げに対するスタッフの執念が強く、私の想像を遥かに超えていた。
お客さまを取る取らないという話や足元を見る接客、人を数字で見るような世界にうんざりし、ギクシャクした人間関係にも心が疲弊していった。
純粋にブライダルだけでお客さまを喜ばせたい私にとって、限界だった。
狭い世界なのは青森だからなのかと、もう一度県外へ行って視野を広げたいと思い、退職を決断。

当時は心が疲弊していたので次に何をしたいかも浮かばず、唯一頭をよぎったのが、学生時代に興味のあった”リゾートバイト”。
人生一度きり、やってみようと決意。
自然の中の温泉地やリゾート地で心を癒すことも目的に考え、動き出した。
退職してから数日後には青森を出て、気付くと群馬の山の中の旅館にいた。
最終ゴールは以前から興味のあった福岡と決め、福岡を目指して南下しながら三重、島根と、渡り歩いた。
そこでも様々なドラマがあり、それまでの人生で決して出逢うことのなかっであろう人たちとの出逢いを通じて様々な経験をし、自分自身を成長させるきっかけに繋げた。
ここで起きた出来事も長くなるので割愛。
いつか良いタイミングがきたら、話そうと思う。

実は日本一周を目論んでいた当時の私だが、住み込みの仕事となると最低期間の契約期間の縛りもあり、年月がかかり過ぎると言うことで断念。
各地方を渡り歩く形で下り、福岡へ。
当時、全くもって貯金の出来なかった私は、所持金10万円も満たない状態で福岡での一人暮らしを試みる。
すると運良く、福岡に住んでいた唯一の友人や職場で出逢った人が部屋が決まるまで住まわせてくれたり、必要な家具をくれたり、日雇いバイトで知り合ったばかりの人が親切にも引越しのトラックを手配してくれたり手伝いをしてくれたりと、本当に予想もしていなかった様々なご縁に恵まれて、あれよあれよと念願の一人暮らしがスタートした。
青森を出た時に決めた”25歳までに一人暮らしをする”という目標が、ちょうどその歳で叶ったのだ。

やはり、”決めれば叶う”。

そして仕事とのご縁にも恵まれ、なんとなく学生の頃から憧れていたカフェでの仕事をスタートさせた。
ちなみに福岡に来たかった理由はただ一つで、”食”。
学生時代からテレビでよく目にしていた福岡のグルメに完全に心を奪われていた私は、いつか絶対福岡に行く、という想いから”福岡は絶対に私の肌に合う”という謎の確信に変わり、それを信じて渡り歩いた。
そして自分の直感というものは本当によく当たるもので、福岡での暮らしはそれまでに味わったことのない充実感で日々満たされていた。
食だけでなく、人も街も、そこで感じる空気感も、すべてが私に合っていた。
すべてが引き寄せられるように、私のところに集まってくる感覚。
仕事もプライベートも、何をするにも毎日が愉しく、すべてがうまくいっていた。
初めての一人暮らしで手にした自由と自分一人で全てやるという責任のバランスが、私にとっては最高に心地良かった。
地に足をつけて自分の人生を歩んでいる、そんな感覚だった。

そんな中、30歳が近づくにつれて、ずっと心に秘めていた夢をいつ叶えるのか、このまま叶えないまま終わっていいのかと、時折自問自答していた。

その夢とは、
”ワーキングホリデーで海外に住む”ことだった。
いつかやろう、やろうと先延ばしにし、貯金もせずに”今”を楽しむことに注力していた私だったが、一度心でやりたいと思ったことをそのまま放置することもできないと心では分かっていた。
いつか絶対に、後悔する。
そう強く心で感じた私は、大好きだった福岡での暮らしを手放し、当時上司から依頼された東京への異動の話を引き受けることにした。
正直、東京には住みたくなかった。
人混みも、忙しない都会での生活も、好きではなかった。
でもだからこそ、逆に良いチャンスだと思った。
なぜなら福岡に居続けたら、居心地が良すぎてそこから動けなくなってしまうから。
上司には29歳の年までにはワーホリで海外へ行く旨を伝え、それまでの間、東京の店舗の立て直しの協力をするということでお互いに合意し、異動となった。(当時の東京の店舗には課題がいくつかあり、”何でも誰にでも物怖じせずに意見を言える”私の力を貸してほしいということで、異動の話が出たのだった)
そしていよいよ、福岡での心地よい一人暮らしのアパートを手放し、東京での寮生活が始まる。
無駄にモノを持たなくていいし、ちょうどいい。
東京での生活に揉まれて強くなって、海外へ渡ろう。
それが私の決意だった。


そしてこの後、
思いもよらない出逢いによって、その後の私の人生が大きく変わっていくこととなる。






ここまで貴重なお時間を割いて読んでくださった方、有難うございます。

次は私の人生を大きく変えた出逢いについて、綴っていこうと思います。







With love and gratitude

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