【マイ・ブロークン・マリコ】

私の骨は、どうかそんな、寒い土の中なんかに置いていかないで。

【あらすじ】
ある日、ブラック企業勤めのシイノトモヨ(永野芽郁)を襲った衝撃的な事件。
それは、親友のイカガワマリコ(奈緒)がマンションから転落死したという報せだった――。
彼女の死を受け入れられないまま茫然自失するシイノだったが、大切なダチの遺骨が毒親の手に渡ったと知り、居ても立っても居られず行動を開始。包丁を片手に単身“敵地”へと乗り込み、マリコの遺骨を奪取する。
幼い頃から父親や恋人に暴力を振るわれ、人生を奪われ続けた親友に自分ができることはないのか…。
シイノがたどり着いた答えは、学生時代にマリコが行きたがっていた海へと彼女の遺骨を連れていくことだった。
道中で出会った男・マキオ(窪田正孝)も巻き込み、最初で最後の“二人旅”がいま、始まる。


元々原作漫画を少し読んでいたこともあり、映画化されると知って絶対に観に行こうと思っていた。
ストーリーにもある通り、これは友達の遺骨を両親から奪い去るところから始まる。
ネグレクト、だなんてたったそれだけの言葉ではいい表せない程の屈辱を受けていた友達の死を知り、その骨をその両親に預けておくなんてことができなかったシイノ。そんなシイノが包丁を突きつけて遺骨を強奪するシーンまで、それまでもしっかりとシイノとマリコの二人の関係性を丁寧に丁寧に描いている。

マリコは弱い。とても弱い。
勿論ネグレクトという環境が彼女をそうさせている部分も多いのだろうけれど、それでも、自分を一人にしたら死ぬから、と手首にカッターをあてがう彼女の孤独はとても強くて、とても脆い。
そんなマリコにはシイノがいて良かったな、とも思うし、きっとぶっきらぼうで、口が悪くて、そんなに人間関係が上手ではないシイノの孤独も、そうやってマリコが救ってくれていて、
共依存、とまではいかないまでも、凸凹を埋め合うように、二人は生きていた、いや、生きあっていた。

一見歪んで見えるマリコの考え方は発言も、それでもシイノが隣にいれば「大丈夫」になって、でもそんなマリコを守ることとでシイノも「大丈夫」になっていく。
どちらも極端に持っていない何かを、相手が持っていて、それを掌の上に並べて、私にはこれがあるよ、と見せている気がする。
危ういくらい素直な二人のそんなやりとりが垣間見えるたび、わたしに、そんな友達はいたっけ、と思う。
いや、友達はいる。ありがたいことに、かなり恵まれている方だと思う。
一人一人が魅力的で、ひとりで立つことのできる強い人が多い。もうすでに家庭に入っている人もいれば、子育てしている人も、かと思えばバリバリと仕事をしている人もいるし、様々な交友関係がある。
私が苦しい、と言えば話を聞いてくれる人がいて、会いたいといえばすぐに飛んできてくれる人がいて、逆も然り、逃げ出したいと言われて急に泊まりにきた友人もいるし、会うたびに絶対また会おうね、と泣いてしまう人もいる。
そんな彼らは、もし私が死んで、もしその骨が、私が思うよりもずっと酷い扱われ方をしたら、奪い去りに来てくれるだろうか。
同じように、私は包丁一つ持って、奪い去って、素足で走り出せるだろうか。

それ、が正しいわけではない。
走り出せないから冷たい、と言いたいのではなくて、でも、私が死んだとき、それはどのくらいの悲しみを植え付けることができるのだろう、とシンプルに考えている。
私は酷い人間なので、もし、私が死んで悲しんでくれる人がこの世にひとりでもいるというのなら、思い出すたびに泣いてほしい。
どうして死んでしまったのと泣いて、苦しんで、一生私のいない寂しさと隣り合ってほしい。
でもそのくらい、誰かに強烈な何かを残せている気もしないから、どうしたってマリコが羨ましい。

私はマリコほど弱くはなれないし、誰かの人生に自分を預けることはできない。でも、シイノほどどんな環境でも馬鹿正直に、目の前のことに真っ直ぐになれる素直さも捨ててきてしまった。
何かこれといった強さも、魅力もあるわけではないけれど、それでも、私が死んだとき、シイノのように私を思ってくれる人ができるよう、今日も背筋を伸ばして生きていくしかない。
そんな映画でした。

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