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中学受験に全落ちして消えたくなった後、慶女に受かって「全落ちしてよかった」と思った話

※昔の日付の下書きを流用したら公開日付古くなってしまいましたが、2024/2/3公開です。

こんにちは、なっちです。今、まさに2024年度入学の方の首都圏中学受験シーズンですね。我が家は2025年度組なので、「新小6の授業スタート!」という時期なのですが、X(Twitter)のポストを見ていて、改めて自分の中学受験のことを振り返りたくなりました。

私は、中学受験「全落ち」組です。受験の漫画でもXでも、「全落ちだけは避けたい」という内容を目にするので、「古傷えぐられるな…」と思いますし、中受予定の子をもつ親としては「●●だけは避けたい、ってのは親子ともにプレッシャーだよな…」と思っています。親のプランにかかっている、みたいな書かれ方もするので、「ううっ…」となり、そこまで言わなくてもいいのにと思います。

「全部落ちたらどうしよう」と思っているご家庭の方に、おこがましいですがあくまで個人的な経験談から「全落ち=終わりじゃない」(終わりなはずはないですが…)ということと、高校受験に成功したときに「『あのとき全落ちしてよかった』と思えた」というお話をしたいと思います。(来年の自分のためでもあります…)

自分も姉と同じで優秀だと思い込んでいた小学生時代

まず、自分の小学生のときのお話をしたいと思います。
私は太り気味でスポーツができなくて、勉強もできなくて、猫背で暗くて、性格もあまりよくない子でした(書いていて悲しい…!)。

年の離れた姉が一人いて、彼女が大学に入る頃、私は小学生。姉は中学受験組で、私立進学校→早稲田大学に現役で入りました。とにかくたくさん勉強していましたし、学校でも一番上のクラスで優秀だったようです。大学時代はバイトをしてお金を貯めてホームステイにも行っていました。帰国後に英語で電話している様子も目にしていて、子どもながらに「かっこいいな」と思っていました。

一方、私は全くといっていいほど勉強をしていませんでした。でも、姉が優秀なもので、自分も頭が良いと思い込んでいました。そして、小学校で数少ない友人のうちの一人から「中学受験すればいいじゃん、日能研に来なよ」と軽く誘われたことがきっかけで、その気になってしまったのです。

親に「私も中学受験したい」と言い、日能研生活がスタート。たしか、小学校4年生のころだったと思います。しかし、入ったクラスは最も下。日能研は当時も成績に応じて席順が変わっていましたが、席も一番後ろでした。つまりビリです。具体的な偏差値は覚えていませんが、30前後だったのですかね。

理由もなく天狗になっていた自分としては、結構ショックでした。それでも、最初は「これからどんどん上がっていくだろう」なんて思っていたんです。でも最後まで上がりませんでした。たまに席が少し前になったことはありましたが、基本的にビリでしたし、やっぱりクラスは一番下でした。

授業にまったくついていけず、勉強の仕方もわからず、手も足もでない。ほとんど理解できない模試やテストを前に、無駄に何かの文字で答案用紙を埋めていた嫌な記憶、いまでも残っています。特に、社会や理科なんて苦痛以外の何物でもありませんでした。

しかも、人間関係もうまくいっておらず、目つきが悪くて太っていた私は、「ごっつい」と言われてからかわれ続けていました。ふざけた男子が先生の「ごっついと黒板に書いて」といい、先生がよく把握しないままそのとおり書いたときは、教室のなかで号泣してしまいました。なんとも、苦い思い出です。

なぜか中学受験は受かると思っていた

これだけできなかったにも関わらず、それでも受験はうまくいくと思っていました。挫折経験がなく、うまくいかないという発想もなかったのです。遺伝子的な何かによって、うまくいくと思っていたのですかね。
(ちなみにこの話をしたら、小5の息子に「えっ、受かるわけなくね?勘違いひどくね?」と言われました(笑))

桐蔭学園が第1志望で、受験ぎりぎりに志望校をいくつか足していました。おそらく、先生に言われたところを親が願書出したんだと思います。どこだったかもあまり覚えていませんが、桐蔭よりずっと偏差値が下だということはわかっていました。そのうちのひとつは、なんだか受験したときの学校の雰囲気も暗いように感じて、上から目線で「こんなとこ行きたくないな」と思っていましたが、そこも合格はいただけませんでした。

全部だめだったとわかった日、仕事を抜けていた母は、家を出ていきました。父は仕事、姉はたぶん大学かバイト。母がいるときは感情をあまり表に出さずにへらへらしていたような記憶がありますが、シーンとなった家で、どんどん悲しさがあふれてきました。涙が止まらなくなって、声を出して泣きました。

無性に生きていることが嫌になって、消えたくなりました。恥ずかしくて悔しくて、自分がすべて否定されたようでした。台所にいって包丁をもってきて、自分の手首にあててみました。親がいないうちに…と思ったのですが、怖くて痛そうで、少しも切れませんでした。ただ、おいおいと泣くしかありませんでした。

また、受験の報告だったのか、お疲れ会だったのか…覚えていませんが、全落ち後になぜか日能研にいきました。親はおらず、私一人で。そこで、顔だけは見たことがある女の子が親と一緒に来ていて、「小5から始めて鴎友に行けて、十分な結果だと思っているんです~。ありがとうございました!」と大きな声でニコニコしながら先生に言っていました。今でも、目と耳に焼き付いています。

私は、自分の子が受験して結果がでたとき、何があっても、子どもがどんな反応をしていたとしても、そばにいたいと思います。

湧いてきた「絶対巻き返してやる」という気持ち

どのくらい悲しさが続いたのかはあまり覚えていませんが、意外と短かった気がします。強い劣等感にさいなまれ、「恥ずかしいから地元の公立中に行きたくない」と親に無理を言って、なんやかんやで学区の違う公立中に行きました。そして、このまま姉に負けたままでは嫌だ、と強く思いました。

しばらくして、「高校受験向けの塾に入りたい」「日能研みたいにいっぱい人がいるとこじゃなくて、人数が少ないところがいい」と親にお願いし、当時結構校舎があったZ会の対面式の塾に見学にいきました。すぐに入塾を決め、小6の3月には英語も含めて勉強していた記憶があります。

日能研ビリだった私ですが、高校受験の勉強を始めて「中学受験したからめっちゃ有利だな」と思いました。私は理社を早々に捨てて3科目に絞りましたが…特に公立高校を受験する場合は、中学受験の問題に比べてかなり解きやすいと思います。

また、中学受験の結果が出たことで「太ってる」「運動できない」「勉強できない」「暗い」自分について、一気に客観視できるようになりました。それまでも「なんとなくこのままじゃダメかもしれない」とは思っていたのですが、ダメだと思いたくなくて、目を背けていたんです。

中学からは人間関係をリセットしたこともあり、とにかく自分を変えたいと思いました。お菓子やジュースを断ち、運動部に入って部長をやったり、学級委員や文化祭実行委員や生徒会をやったりと、かなり積極的に活動。性格がよくないことも自覚したので、優等生的な性格をつくりにいき、どれが本当の自分なのかわからなくなったほどです(笑)。

いろいろと人間関係には悩みましたし、失敗もたくさんしましたが、なんとか殻を破ろうと必死でした。最終的にはかなりの優等生ポジションを手にしました。
(優等生がいいかどうかはわからないですが、当時の目標はかないました。)

Z会の塾にはいって、恩人に出会う

勉強面では、Z会に入って本当によかったです。ここで出会った国語の先生が、私にとっての人生の一番の恩人。私に合った勉強法を提案してくれ、親も「絶対無理」といった志望校を薦めてくれました。それが慶應女子でした。

当時、全然偏差値も届いておらず、慶女を志望校にするなんて少しも考えていませんでした。模試も一番良かったときで合格確率50%。先生としてもリスクがあったはずなのに「きっと大丈夫」と言ってくれて、最後まで背中を押してくれました。「あなたの場合、数学で50点、英語で70点、国語で80点取れればいけるから。きっと校風も合うから」と。とにかく先生に言われたことは、頑張ってやりました。

実は数年後、大学生になったときに別のZ会系列の拠点で学習アドバイザーのアルバイトをして、たまたま当時の塾にいた社員さんとお話をしたことがあります。その方曰く、「あの先生、ほかの科目の先生から『なっちさんに慶女薦めて、大丈夫なんですか?』と言われていたのに、『大丈夫です!』って言っていたんだよ」と教えてくれました。それを聞いて、さらに感謝の気持ちが強まりました。

慶女の合格発表は、父と見に行きました。両親ともに慶女の合格を最後まで信じていなかったので、父はちらっと番号がないことを確認して、すぐに「帰るぞ」といいました。私は「補欠のほうを見てないよ!待って!」と言い、「あるわけないだろ」と言われたのですが、父の腕を引っ張りました。そして、補欠のところに番号があることを確認すると、父はとても驚いていました。ドキドキしながら今か今かと繰り上げの結果を待ち、ありがたいことに電話がかかってきました。

あと2つ順位が下だったら補欠合格しておらず、たまたま数日前に中学で隣の席の男子に「お前こういう問題やったことある?」と聞かれて解いた問題の類題が大問として数学で出たので、本当にギリギリでした(そのときの男子にも感謝…)。

Z会の先生の後押しがなかったら慶女は絶対に受けなかったと思いますし、全然手が届かないところから、「なんとか届くかも」というところまで手を引いてくれ、信じてくれました。この合格が、一気に私のコンプレックスを取り除いてくれたのです。そして、高校受験後に「中学受験全落ちしていなかったら、慶女に行けなかった。全落ちしてラッキーだった!」と思いました。

受かったことがないから、ずっと怖かった

もちろん、「全落ちしてよかった」は結果論です。当たり前ですが「慶應にいった=幸せ」とは限りませんし、中学受験で仮に全落ちせず、どこかの学校にいけていたとしても、良い出会いがあって「受かってよかった」と思っていたのかもしれません。

それに、高校受験をするまで、受験がとても怖かった記憶があります。高校受験では辞退できる推薦入試に事前に合格をもらっていたので(中受の第一志望だった桐蔭です)、一般入試では「行けるところはある」という安心感がありましたが、「また全部落ちるのではないか」という不安でいっぱいでした。また、全落ちのことを思い出すと今でも泣いてしまいます。この記事も書きながらちょっと泣いてしまいました…。心の傷にはなっていますし、結構な挫折経験です。でも、つらい挫折経験は、その後が大事だと思うのです。

道はいくらでもある。次の挑戦の後押しを

結果が出てからの行動や出会いで、「この結果でよかった」と思える可能性はあります。強くなれたり、「次はやってやるぞ」と思えたり、その経験が糧になることがあると思います。

中学受験がうまくいかなかったらとてもつらいと思いますし、もう嫌になってしまって、消えたくなることもあると思います。

でも、次のチャレンジを後押ししてくれたり、信じてくれたりする人に出会えたら、あるいは保護者がそうであったら、きっとまた次のチャレンジに向かえるはず。誰か一人でも「できる」と言ってくれたら、大きな力になるはずと思うのです。

* * *

経験談と私見ばかりをたくさん書いてしまいましたが、中学受験がうまくいかなくても、いくらでも道はあるはずと思います。全落ちが失敗かどうかなんて、受験終了時点で全くわからないと思うんです。

受験者数より入学枠が少ないので、普通に入れない可能性はあるわけで。その中でも、目標を立てて親子ともにチャレンジしているというのは、それだけでとてもカッコいいと思います。


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