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夜と霧 - 生きる目的と生きる責任

"なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える"

夜と霧 新版より

著者のV・E・フランクルは、著書「夜と霧」で、ニーチェの格言を用いて、言葉では表せないくらい壮絶なアウシュビッツ強制収容所の生活を、精神的に耐え、乗り越えていくために重要な考え方を記している。

夜と霧は、著者自身がアウシュビッツで過ごした体験を、心理学者の視点から書いたとても貴重な内容である。
当時はふーんと読み流していたこの文章、今読むとまた違って見える。
と、この本を久しぶりに開き、読みながら自分の過去を思い出した。

大学卒業の時と、海外の大学院にいた時、の計2回、アウシュビッツとビルケナウの強制収容所を訪れている。2回とも1人で訪れた。
きっかけはよく思い出せないが、大学生の時に強い関心を持つようになっていた。

関心を持った理由は、「人間は何て残酷なことができるんだろう、しかも数十年前の出来事だなんて。自分がドイツ側で収容所に配属される立場でも同じことをしてしまうのだろうか」というホロコーストを行った側に立った時の気持ちを考えたことだった。
カンボジアのキリングフィールドやルワンダのジェノサイドなどにも同様に関心を持っていた。

そんな気持ちを確かめるために、大学を卒業した時に1人でアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れた。最寄りの町クラクフに泊まり、そこから電車で向かった。
朝9時ごろだったか、訪れたのが2月だったのでまだ空は薄暗かった。駅に到着した時には、霧がかっており、背筋がゾクっとした記憶が残っている。

まずアウシュビッツに行く。想像より小さい。ガス室、収容室、展示を見て回る。ここで毎日大量のユダヤ人が殺されていたと思うと心が重くなった。
13年も前だけど、訪れていた少女が泣き出した光景が思い出される。

そして、ビルケナウに行く。こちらは広い。ユダヤ人の収容施設がいくつも残っており、あたりを歩き回りながら彼らの日々の生活に思いを馳せていた。
いつ死ぬかわからないなか、こんな劣悪な環境で暮らし、どういう気持ちだったのだろうか。希望はあったのだろうか。どういう思いで死んでいったのだろうか。
心は重くなったが、訪れて、実際に空気を感じることができ、自分にとってはとても良かった。

当初関心があった、自分がドイツ側で収容所に配属される立場だったら同じことをしてしまっただろうか、については正直わからなかった。
気持ちでは拒否したいが、強制的に従事しなくてはならない状態に置かれてもなお、拒否できるか。
行く前は、自分拒否できるかなと少し思っていたけど、実際に収容所を見て、こんな施設を作ってまでホロコーストを進めてきたナチスの執念を感じ、その場にいた時に自分は拒否できるとは言えないかもしれない、と思い直した。僕は強い人間ではない。

でも、ホロコーストのように極端でないにせよ、僕のこれからの生活でも、何かを強制される状況に置かれる前にそこから逃げることだったり、自分が拒否したい時に別の選択肢を選べる状況を作っておくことは大事だな、と思った。

それに、自分が想像で正しいと思っていることは、実際においては違うかもしれない、自分の当たり前を疑う視点を持ちたい、ということを考えていた記憶がある。

2回目は、留学中。少し休みができたので、チケットを取り、再度クラクフへ。
やはり、ズシッと重たく感じるものがある。

もし自分が同じ立場だったら、今までの全てが無になった気持ちになり、何を目的に生き延びればいいのだろうか。希望が感じられず、すぐ死んだ方が楽になれるのではないのか。という感覚になってしまうかもしれない。

将来の自分へ投資をするために大学院に入学したこともあってか、2回目の訪問ではそんなことを考えていた。

そこで、冒頭の言葉に戻る。
"なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える"
2回目の訪問から10年ほどが経ち、今は結婚し、子どももできたし、当時とはまた違う感覚でいる。
今回読んで印象を受けた文の一節を記載したい。

"ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ"

夜と霧 新版 P129より抜粋

私たちは「何のために生きているのか?」ということをよく意識して考える。“自分の生きがい”とか“自分が生きる意味”とか。
でも逆に、「自分はなぜ生きているのだろう?」ことはあまり意識しないように思う。
自分を中心に置くのではなく、大切な人や大切なことを中心に置いた上で、自分が生きることには、誰の、もしくは、何の、期待や思いがかかっているのだろう。

そう考えると、生きるために目的が必要なのではなく、生きている責任があるから生きていく。とも考えられる。

自分の「生きる目的」を考えるのはとても重要であるが、時にはそれを脇に置いて、自分が「生きている責任」を問うのも大事かもしれない。
生きていることに責任があるならば、その責任を果たすために、ポジティブなことやその感情だけではなく、ネガティブなことやその感情にも素直に向き合い、それを受け入れることができるのではないかなと思った。

夫であり父であり、子である身としては、今までより一層「生きる責任」が大きくなり、当時アウシュビッツで感じた「生きる目的」と共に、心の中に強く存在しているのだろう。
今回読み直して、そんなことを思った、

苦しいことはあるけれど、苦しいことに正直になり、それでも生きていく。
著者を心から尊敬しますし、その経験を文章に残してくれたことにとても感謝します。

3回目、次は大きくなった娘たちを連れて家族で訪れたい。


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