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他者の期待をドブにポイッした話

今まで「君に期待している」「お前には期待している」こんな言葉を言われた事があった。当時学生だった私は「はい、頑張ります」という返答をしていたが、どこか喉に魚の骨が引っかかったような違和感があった。

この骨は何なんだろうと?思い、高校〜大学の間に度々考えていた私は期待する側と期待に応えようする側の構造の問題点に気づいた。

期待する側の考えとしては、例えば親の場合、自分が人生で達成できた事、出来なかった事にかかわらず、それが正しいと思っていることを、子供にもそうして欲しいと考えている部分があるんじゃないかな?と思った。でも、その考えにはどこか、「自分の考える幸せ=子どもの幸せ」というおこがましさが隠れてないかい?と思った。

他方、期待に応えようする側に関しては期待に応えれる間は良いが、どこかで応えれなくなる場合がある。応えれるかどうかかがプレッシャーになり、応えれなくなった時に、自分はダメ人間なんだと、自己否定に繋がる場合がある。

このような息苦しい構造があると考えた私は、「自分の人生なんだから自分で好きに生きていいじゃないか。なぜ他者の身勝手な正しさに従って自分を押し殺す必要があるんだい?」と当時思った。プレッシャーを感じるとパフォーマンスは良くならないし、反骨精神を持っていた私なりの結論だったな、と今になって思う。もし、誰かの期待に押し潰されそうな人がいたらこう言いたいと思う。「あなたの人生をあなたなりに生きようとして、一体何の問題があると言うのだろうか?」

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