【超短編小説.5本目】一歳

 「ちょっと一回冷静になろうか。」
一歳の息子が、ハッキリとそう言った。俺と嫁は、息子の方を見て、呆然とすることしか出来なかった。
 
 今日、俺が女性の部下とランチを食べていたのを、妻の友達が目撃したらしい。俺が家に着くなり、妻に問い詰められた。
「浮気じゃないにしろ、周囲にそういう風に勘違いされたらどうすんのよ。」
「別に昼飯くらい良いだろ。」
「てか、本当に下心がないのかどうかも怪しいしね。」
「いや、そういうんじゃないって。」
「ならなんで、私にその話しないのよ。」
「なんでわざわざ俺が部下とランチに行くことを報告しなくちゃなんねぇんだよ!」

「ちょっと一回冷静になろうか。」
声のする方を見ると、息子が真っ直ぐにこちらを見ていた。「ママ」や「パパ」、「まんま」や「わんわん」などの単語を覚えたばかりのかわいい息子…。
「え?」
妻が喉の奥からカスれた声を上げる…。
「亮太…?」
「あ、いや、違うんだよ。ごめん。驚かせてごめん。ちょっと、二人とも怒りすぎだと思ったからさ…。」
「喋れるのか…?」
俺が恐る恐る尋ねると、亮太がヘラヘラと笑う。
「あ、いや、今だけだよ。火事場の馬鹿力ってやつ。」
「は?」
「このままだと二人がケンカして、離れ離れになっちゃうって思って、テンパって、気づいたらなんか喋れてた。なんか、覚醒したっぽい。」
「いや、え、待って、そんなことある?」
「カメラカメラ!録画しよう。」
そう言って妻がスマホの録画ボタンを押すと、亮太は「わぁーーん。」と泣き始めた。
「え?」
「亮太?どうした?」
「あ、うんち出てるわ。」
手際よく、妻がオムツを取り替えた。そして、それ以降、亮太が突然喋り出すことは無かった。本当に火事場の馬鹿力だったらしい。何度か亮太の前で喧嘩をするフリをしたりもしたのだが、何の意味も無かった。

 亮太の十歳の誕生日に、その時のことを話すと、「嘘でしょ?」と目を見開いていた。
「絶対嘘だよ。」
「本当だって。本当だよな?」
妻に同意を求めると、妻も深く頷く。
「本当にビックリしたんだから。病院にも連れて行ったし。」
事実だということを伝えたくて、夫婦でアツく熱弁すると、亮太は
「ちょっと一回冷静になろうか。」
と言って笑った。

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