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コンスタンチノープル遠征記

 ある一つの歴史的事件に、複数の当事者が記録を書き残しているという事実は後世の人々にとって幸いと言える。複数の視点から当時の出来事を眺めることによって、事件のみならず同じ時代を生きた人々の思考も追えるからである。

 第4回十字軍については、シャンパーニュ伯のマレシャルで実質的な指導者の一人であったジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンによる「コンスタンチノープル征服記」が知られるところである。聖地に赴かず同じキリスト教徒の都市を征服したこの十字軍に関しては、以前同書の内容を参考に記事を認めた。

 この第4回十字軍に関しては、ヴィルアルドゥアン以外にも従軍者による記録が存在する。フランス北部、ピカルディ出身の騎士ロベール・ド・クラリ(Robert de Clari)による「コンスタンチノープル遠征記」(La Conquête de Constantinople)が、コルビのサン・ピエール僧院の修道士による聞き語りとして残されている。
 ヴィルアルドゥアンによる「征服記」が高位の人々に読まれることも意図したうえで記されているのに対し、クラリの「遠征記」は純粋に十字軍帰りの一騎士による回想である。したがって多少の記憶違いや不正確な伝聞によるあやふやな記述はあるものの、北フランスの村落から東ローマ帝国の帝都へと赴いた田舎騎士が、全く想像だにしなかった文化や事物に触れた新鮮な驚きが率直に記されているのは大変に興味深い。
 第4回十字軍のあらましについては前回の記事に譲るとして、ここではクラリの「遠征記」について考察してみたい。

 ロベール・ド・クラリは、ピカルディ地方の中心地アミアン近郊の村を支配する領主であった。領主とはいえ、その所領は現在の面積単位に換算するとおよそ6ヘクタール半と慎ましやかなものであり、騎士の中でも下位の身分に属していたことは容易に想像できる。クラリは近郊の中堅領主であるアミアン伯ピエールに仕える騎士であり、アミアン伯は大領主サン=ポル伯に忠誠を誓っていた。
 1198年にシャンパーニュ伯やブロワ伯が主導する形で十字軍参加が呼びかけられるが、サン=ポル伯もそれに応じた一人であった。十字軍遠征のためサン=ポル伯は配下のアミアン伯も招集し、アミアン伯は同じく配下の騎士を招集した。かくなる中世ならではの主従関係により、田舎騎士ロベール・ド・クラリも十字軍遠征のため集結地ヴェネツィアに向かうこととなる。弟で学僧のアローム・ド・クラリも同行したが、この人物もなかなか興味深い活躍を示すので後述したい。この頃ロベールは父ジロンより家督を譲られ、年齢は三十歳を越えた程度だったと推測される。
 クラリは下級騎士という身分上、十字軍の戦略に何ら影響を及ぼす存在ではなかった。十字軍の進路に異議を唱えることもなくアドリア海を渡り、ついには帝都コンスタンティノープルに到達する。
 しかし時をおかずして主君アミアン伯が没し、その主君であるサン=ポル伯も病死すると、ロベール・ド・クラリは1205年に彼の地を離れ弟アロームと共に帰国した。他の十字軍士に引き較べ無事に故郷の地を踏むことができたわけだが、それに留まらず実に五十四点に及ぶ聖遺物を持ち帰り、コルビのサン・ピエール僧院に納めたことが記録に残っている。
 コルビの僧院は7世紀からの歴史を持ち、学僧を多く抱える一大学術センターでもあった。現代で言う出版業にも手を染めており、特に十字軍から帰還した人物の体験談を写字生が書き取る形の記録が多く作成されたという。ロベール・ド・クラリの「遠征記」も同様の形式で成立したと見られており、その記録は十字軍結成のあらましから始まり、ラテン帝国の二代皇帝アンリ・ド・エノーの死で締めくくられている。

 ロベール・ド・クラリの「遠征記」で興味深いのは、金や兵力などの数値が具体的であると同時にヴィルアルドゥアンの「征服記」で挙げられている数値とほぼ一致していることである。第4回十字軍は当初ヴェネツィアと契約した時の見積もりよりもはるかに少ない兵力しか集まらず渡航費用も不足していたことは知られているが、その情報が十字軍の末端にまで及んでいたことが察せられる。
 また、ヴィルアルドゥアンが(おそらく政治的思惑から)折に触れて遠征の大義を主張するのに対し、クラリは金銭について仔細に並べ立てる。遠征にはとにかく金がかかるため、つましい暮らしを送る田舎騎士には路銀を工面することすら困難であっただろう。資金捻出のため、おそらく抵当に入れた資産は故郷に残した家族の生活すら圧迫するものであったに違いない。
 コンスタンティノープルに到達すると、クラリの口調は一転して帝都の絢爛豪華な建物や神秘に彩られた聖遺物を活き活きと語り始める。その反面、後世の史家が口を揃えて非難する十字軍の残虐な振る舞いには全く触れられることはないが、クラリも陰惨な情景を物語るより異文化に彩られた華麗な都を物語ることを選んだのだと思う(この点において、クラリは並の中世騎士とは違う感性を有しているとも言えよう)。
 また伝聞ではあるものの、アフリカのヌビアから巡礼のためコンスタンティノープルを訪れた王や、十字軍首脳に援軍を求めるコンヤのスルタンについて触れられている。中世地中海世界における国際都市であったコンスタンティノープルを彷彿とさせる逸話である。
 夢のようなコンスタンティノープルの情景を語る一方で、クラリは現実的な話も忘れない。戦後の論功行賞において、高位の者だけが(特にヴェネツィア人が)価値のある戦利品を獲得していくことに不満を漏らしている。曰く、残されたのは「ただ都の婦人方が湯浴みに持って行く銀製の桶というような安手の銀製品ぐらいしかなかった」という有様で、その後ラテン帝国が建国されても離脱者が相次ぎ国情が不安定だったのも容易に納得できる。

 「遠征記」において驚かされるのは、クラリの口調が明快であり、また臨場感豊かであることだろう。
 恐らくクラリは目に一丁字のない人物であっただろうが、であるからこそ保っていた純粋な感性が、爛熟した文明を誇るコンスタンティノープルの描写や各種の伝聞を臨場感豊かに再現させたのではないだろうか。
 クラリを単なる語り手に留まらせなかったのは、北フランスの村落からはるばるギリシアまで遠征するという未曾有の体験によるものが大きい。日常を離れ、遠く離れた別世界で異なる文化に触れたことで、クラリはその後に続く物語作家の先駆けとなり得たのではないだろうか。

 最後に、ロベールの弟アロームについて触れておきたい。
 アロームは所領を相続できない貴族の次男以降に与えられる定番の進路である聖職に進み、学僧という身分にあった。しかし血の気の多い人物だったようで、十字軍の結成に際しては鎧を着込んで武装し、兄ロベールと共に従軍する運びとなった。その姿は従軍僧などと到底呼べるものではなく、むしろ一兵士そのものである。
 コンスタンティノープル包囲戦において、アロームはガラタ門を奪取する際に他の騎士も及びがつかぬほどの武勇を示し、城壁に一番乗りを果たす。しかし戦後の論功行賞において分配品が僅かだったことに不満の声を上げ、周囲の人々の証言もあり、その場にあった銀製品全てがアロームに与えられることになったという。
 なおアロームは帰国後、その功績からアミアン大聖堂の参事に任ぜられた。元々の学僧の身分から考えれば大抜擢であり、これも当時の立身出世譚の一つと言えよう。

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