自己紹介②

原発事故により、1年間山形で過ごした。しかし、転校した山形の中学校に通うこともなかった。認められない現実に、心の窓を閉ざすしかなかった。

国はあの町で暮らしていいと言うけれど、母は戻れないと言う。畑も家も荒れていくだけだ。飼っていた100羽以上の鶏も殺処分したらしい。猫三匹はどうしているだろうか。戻りたい。放射能なんて知らない。友達と学校に通いたい。そんなことばかり考えていた。

父は震災当時、自然農を教えるためインドにいた。帰国して、山形に一度会いにきたけれど何一つ大事な話はしなかったと思う。その後父1人岡山に土地を求めて避難していった。

空っぽになる娘に耐えられなかった母は、元の家には住めないけれど、元の学校に戻ろうかと提案した。だからわたしは戻るといった。戻りたかったから。この選択がどれほど母を苦しめていたかは後で知ることになる。

不登校になった中学2年をやり直すということもなく、中学3年から一番仲の良かった友達のクラスに転校した。

そして高校はせめて県外の高校にしてくれた頼まれた。山形の全寮制のK学園がとてもいいところだからと勧められ、見学会に足を運んだ。とっても田舎でコンビニもなく、土日の休みの日でも町に出られない閉鎖的な高校だったが、思想、良心はとても他の高校には真似できないほど開かれていた。

自然が豊かな土地にあるその高校に決めたのは、自然が豊かだったからだ。願書でも面接でもその旨を伝えた。

本心は母に言われ仕方なくというところにあった。だからそれ以外にわたしがこの高校に入りたい理由が言えなかった。

自分を変えたくて、全国からこの高校に導かれる人は少なくはない。普通の高校とは圧倒的に先生が違う。教育方針が違う。我が子をこの高校に通わせたい。そう願う親も少なくない。

独立した精神というと固いように思うかもしれないが、この多感な3年間を寮と学校という狭い空間の中で自分や他者と向き合うことで、いやでもその精神は付き纏うことになる。

出会いというのは望んでいなくても、必要な時に必要なだけ与えられるのだなと高校3年間を振り返る。

この高校での出会いが震災後、わたしを導き直してくれた感謝せざるを得ない存在になったのだ。

生まれ育った農場を愛していたわたし。

自然を愛してるわたし。

この先わたしがすべき選択。

震災が、原発事故が、わたしに問うていたもの。これからゆっくり丁寧に綴るつもりだが、ひとつだけ書いておくとするなら、それはわたしが自然の一部だということだ。

高校を卒業した春、東京でフリーターを始めた。自然を深く感じるために一度都市の暮らしを体験しようと決めた。4.5年は東京にいるかなと当初予想していたものの、一年ほどで挫折、翌年の夏には土地を見つけて田畑を始めていた父を頼りに、岡山に移住した。

現在、岡山に移住して2年が経った。父に教わりながら自然農で畑を自分で一通りできるようになることを当面の目標としている。

2018年5月から畑のそばに六畳弱の掘っ建て小屋を建て、薪ストーブで煮炊きをする生活を始めて4ヶ月ほどが過ぎた。電気も水道もないこの小屋で過ごす1人の夜ほど贅沢な孤独はない。

ちなみに山羊が3頭。猫が1匹ついこの間やってきて、わたしの暮らしがいよいよ賑やかになってきた。

長々付き合ってもらって申し訳ない。

ありがとう。

ここまで書いてもあなたの中でわたしが形作られるまではまだまだ足りない。これから少しづつパズルのピースをはめるようにわたしの言葉に耳を…いや目を向けていていただけないだろうか。それがわたしにとって幸いだから。

2019.5.30       春寒菜花



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