私は行く
森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第68回目。
K「森田さん、こんにちは。2013年から始まった「クールジャパン」政策の失敗が報じられています。クールジャパンって何だろう?と、私は思っていただけで、よく知らないのですが。そこから海外で人気のあるアニメ産業に、有効な出資がされていなかったという意見がTwitterで見ると多いようです。同時に、日本の現代アートの側からも、その失敗を嘆く向きがある。日本のアニメの海外での人気に、あやかる・便乗するという欲望が集団的にあったのだと思いますが。私はここに元々「空虚」を感じていました。」
「なぜかというと、私は日本の美術のこれまでの歴史を鑑みても、村上隆氏が唱えたような「フラット」にはおよそ還元できないという思いがあるからです。具体例には、おそらく枚挙にいとまがない。村上氏が好んで参照した伊藤若冲は「フラット」だが、俵屋宗達はそうではない。日本の現代アートに限らず、日本の美術館は動員として盛んにこの間(多分に無自覚的に)「フラット」を利用してきた。例えば日本で人気のあるゴッホの1888年以降〜死までの作品は、私の見方では「フラット」です。私の観点からは、「フラット」は息苦しさの表象なんですね。」
M「加藤さん、こんばんは! クールジャパンって何だろう?て、私も思ってました。つねづね。いつのまにか人口に膾炙してた語で、たぶん、2010年前半あたりからは、すでにして、もう賞味期限切れだったという、ネットを眺めていただけの印象ですが。そのような語感です。クールジャパン的アニメの息苦しさ、っていう問題提起は、アニメ界でも言われてたはずで、どっかで見覚えがあるのです。クールジャパン的アニメ=ピカピカツルツル的なアニメはもう嫌だ。 より原色の日本を描くべきだ!という文脈。サマーウォーズっていう作品が、その最右翼みたいなものではないかなと思っています。留保ですが、サマーウォーズが、最適解だった、といいたいわけではないですが。加藤さんの仰った「空虚」への対抗形としての参照例として。あと、なんで、サマーウォーズを連想したのかというと、作中のCGがあまりにも村上隆リスペクトなので。本能的に思いついてしまったのでした。」
「(以降、とりとめなく)なぜ人はフラット=「息苦しさ」に惹かれるのだろうか?簡単には説明がつかない「問い」です。しかし、江戸川乱歩や横溝正史の文章にも「息苦しさ」はあります。多くの人たちにとって、あの「息苦しさ」が、どこか快感なのでしょうね。」
K「「より原色の日本を描くべきだ!」=『サマーウォーズ』になるっていうのが、リアルに日本のゼロ年代末から10年代初頭っぽいですね。「大家族の絆」がテーマとか。現代アートでも景勝地の古民家を展示場所として使用したものが10年代にあり、あーと私は思い当たりました。「空虚」への対抗形としての「大家族の絆」への反動、確かにそれが最適解なはずはなく、見方によっては、より「空虚」が際立つ。本当はもっと正攻法で行くべきなんでしょうね。フラットな「息苦しさ」=快感、まさにその通りだと思います。フラット=自然状態と言い換えてもよい。」
M「「空虚」への対抗形としての「大家族の絆」への反動、→これ、個人的にも最初っから、いかにも進学校的な優等生みたいな回答で違和感がありました。」
K「宮台真司とか、元々そういう方向では? アングラ劇団が好きだったり。進学校の優等生が、放課後に渋谷のゲームセンターで大活躍しているというような。」
M「そう、まさにその質の違和感ですね。そのじつ「差別意識」の塊なんですよ。田舎者だから、私は肌感で察知してしまう。敏感なんです。」
K「(模擬的)「大家族」を60年代に実践していた寺山修司。自宅は劇団員の住処に。玄関がいつも劇団員の靴だらけだったのに、妻の九條映子はうんざりしていたと。離婚。」
M「文学者の石牟礼道子も戦後すぐのときに、戦災孤児を数か月、家に泊めたりしていたそうですが。 10代のときのエピソードだそうで、驚く。田舎の人ならではの感覚。私の祖母(御年90)も、似たようなところがある。」
K「そうですね。石牟礼道子。」
「九條映子は東京麻布出身。」
M「寺山修司と岡本太郎、どっちが残ったか?という議論。いまだにケリがついてないが。」
K「そんな、二択問題があったのですか? どっちも、日本社会ではサブカルとして残っているものだと思いますが。」
M「そうですね。だからサブカルに回収されてしまうというのが、本質なんでしょうね。どうやっても。」
K「どうやっても。それはリアル。だから、例えば私は東京芸大廃止論ですね。あの場所いらないだろうと。」
M「廃止するという方向もあるが、よりリッチにする、という方向の議論は、あんまりないのですね。」
K「リッチにするという議論は、無い(笑)。」
M「社会学的な見方になるが、貧しいせいでみんなサブカルに縋る、という側面があると思うのです。貧乏じゃないですか? 私だってそうですけど。みんなが貧乏ですので、「漫画かくべ!」と。そうなる気持ちは1000%分かる。」
K「だから、サブカルアート(会田誠)が日本の経済的没落を嘆くというのは、どうなんだろうか? 貧乏は、サブカルアートの故郷ではないのか?」
M「ほんと。サブカル画家とか、ナチュラル美人画家とか。類型が...。」
K「ですよね。そこに違和感を感じる。梅津庸一氏は、日本の経済的没落を嘆かない。貧乏をリアルだと受け止めている。この差異。」
M「梅津庸一は、そうですね。黒瀬陽平が沈んだのを横目に、本道を進んでいる感じですね。」
K「会田誠は、リッチへの欲求があるんですよ。」
M「リッチへの欲求がありますね。間違っている。」
「田舎者の、リアルを言うと、貧乏だと、セックスと、漫画くらいしかない。地方都市リアリズム。」
K「地方都市リアリズム、良いですね。そこは、首都サブカルアートに、反撃をするべきでは。正統として。」
M「10年代後半は、けっこうその方向で盛り上がったと思うんですよね。じつは。」
K「ああ、そうか。」
M「コロナで死んだんですよ。みんな。」
K「そうか。」
M「プアーなので、綱渡りだった。ヒト蹴りで、全滅。男はサブカル教祖、女は自然派美人画家、という。そういう流れ、あったと思う。数年前までは。」
K「梅津氏に私が会ったのも、コロナ前でした。印象を、私は寺山修司の「家出のすすめ」文脈で持った。」
M「寺山修司っぽいですよねえ。古き良き「前衛」?みたいなものを、引き受けているのか。」
K「形式としてはそうですよね。」
M「なぜ、みずから負ける方向へいくのか?という面白さがある。加藤さんが梅津氏を評価するのも、そこかな?と。」
K「いや、私は、必ずしもどうかな、それは。むしろ、会田の隠しているリッチ志向を(端的に嘘なので)正直にまずに出すべきでは、という意見を持っている。」
M「そこは、たしかに。一回、見てみたいですね。無理かもしれないけど。この国には、デヴィッドホックニーみたいな人、一人もいない。」
K「プール付きのアトリエに住んでいるような。」
M「そうそうそう。プールでひと泳ぎして、ipadでお絵かきして、」
K「良いですね。犬と散歩して、プールでひと泳ぎ。堀口恭司みたいな方向。」
M「会田氏が、それをやれるか?という。象徴として。一人くらい、いてもいいじゃないか?と。」
K「三島由紀夫が政治に目覚めた晩年言っていた、「共産党の幹部はプール付きの家に住んでいるもんだ」と。」
M「いいだもも、とか。三島も、対抗心があったのか。やはり。」
K「自分を暴露した方が良いのでは。アーティスト。私は、その点欲望には揺れがあるが。」
M「暴露したら、後戻りできないという深層心理かもしれないですね。事実、後戻りできない。」
K「貧乏を実践しているのは、私の方でしょう。明らかに。この勝負。」
M「そうですね。加藤さんが一番マイペース。強い。」
K「もう、勝負決まっていますね。」
M「それはそうでしょう。歴史に残るのは加藤さんでしょう。」
K「権威主義は誰か? 体制側は誰か?」
M「権威主義が、一番、安全なようで、じつは一番、危ないんですよね。」
K「脆い。」
M「やられるときは、コテンパンにやられるから。権威主義、体制側っていうのは、まちがって権力を持つ可能性を常にもっているということですからね。」
K「コテンパンですね。庭で、全ての思い出を焼くことになる。」
M「コテンパン。毛沢東の文革もそういうものだったし。文化人皆殺し。それは毛沢東が、文化人を恐れていたからですね。当然、当事者には、恐れがあるから、自分を表現できなくなる。当時の中国と、現在の日本が、どれほど違うのか?という問題。私はそこまで違わないと思っている。」
K「全くそうだと思いますよ。私が所属していた名古屋のGallery HAMは、日本で一番広い良いスペースを持っていると言われていた。当時、自社ビルで。オーナー神野氏はコレクター出身で、リヒターの現物も私はそこでよく見た。会田誠の所属するミズマギャラリーのオーナー三潴氏とは全共闘仲間。ここら辺が、日本の現代アートの陰・日向の権力構造の核なのです。美術館行政もこれに従っている。イデオロギーは「反米」。日本の現代アート業界全体が、これへの古い固着形態なのですね。そこから私は自らの意思で出た。その結果、私は全く発表する場所を20年近く失ったが全く後悔はない。」
M「あと20年くらい待てば、 大量の老人が軒並み死ぬので、この国も変わるかもしれないと思うことがあります。いっつも、おもっています。これは。もしくは、東京大震災(笑)カモン!と。」
K「まあ、それはよく言われますね。逆に言えば、「全共闘世代の奴等は100まで生きるから、日本は変わらない」という絶望論。これは10年代まで言われた。会田は全共闘世代の小判鮫にすぎないから、標的としてはダミーなんですよね。私が狙っているのは、本丸です。」
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