茂木健一郎×塩谷賢 対談を見る(前編)

オマル マン氏との対談、第36回目。

K「オマル マンさん、こんにちは。以下の対談を(時間がないので、途中まで)視聴。」

#塩谷賢 対談 #ウクライナ 情勢 #ロシア 国家とは 軍事とは アメリカの本質 プーチンのねらい 日本の道 今後の世界 #核兵器 の意味 
https://www.youtube.com/watch?v=NmrHh1koqSA
塩谷賢「新しいことが起こることとは、ローカルな意味での変異だから。ローカルな意味での変異っていうことを発展させるためには、そのエージェントのローカリティが強い方が強いはずだよね。だって大きかったら、そのエコロジカルな格好でシステムとしての変異になっていかなければいけないから、時間がかかるわけだよね。」

「ヨーロッパの、技術発展の本質部分。」

O「加藤さん、こんばんわ! 「そのエージェントのローカリティが強い方が強いはずだよね」、この「強い」という語に不可避に付随する「緊張」を、表現していますね。塩谷氏は。対談は、その後「経済」についての言及が中心になる。しばらく頷いて聞いていました。塩谷氏がリードしているようですが、「アート」に直結した内容です。対して「そのエコロジカルな格好でシステムとしての変異になっていかなければいけな」かった...と言及している、その言外の対象とは、中国ですね。」

「茂木×塩谷による「ユーラシア論」。」

K「オマル マンさん、返信ありがとうございます。上記動画、今全部見ました。なかなかのハードトークで。面白いものでした。とりあえず、気になったところをさらに抜粋。」

塩谷賢「自分がエージェントで、そこにフリーな環境があるんじゃなくて、環境を管理することがアメリカの責務なんだよね。トランプはそれが分からない人。彼は純粋に商人だから、自分がエージェントとして考えている。」

「経済の話題ですね。フーコーで言えば、「市場と統治」の問題。」

「動画、最後の部分。」

塩谷賢「ロシアがウクライナに、どうしてこれ入ったのかというときの、引けなさ。生体学的な意味での国という動き方と、そこに対する一つの管理的なパートとしての国家政権というもののズレというのが、国際政治の中に効いてきたかなという話を、考え直したのはこのおかげだよね。」

「塩谷氏は、市場とその国家政権による(「暴力」を含んだ)管理というモデルで我々はこれまで考えてきたが、と最後に結んでいるが。フーコー的なこれの逆転の構図は、主に考慮するべき点かと私は思います。(前回、パープルームを論じた時の、私が指摘した「学級崩壊」の問題とも、構図として重なるものだと私は考えますが。)」

「以下、フーコー「生政治の誕生」から、ランダムに抜粋。」

ミシェル・フーコー、コレージュ・ド・フランス講義(1978-1979年度)『生政治の誕生』、筑摩書房

p.304
古典的自由主義においては、統治に対し、市場の形式を尊重して自由放任することが要求されていました。それに対してここでは、統治活動一つひとつの測定と評価を可能にする市場の法則の名のもとに、自由放任が、統治の非自由放任へと反転させられています。自由放任はこのように反転し、そして市場は、もはや統治の自己制限の原理ではなく、統治に対抗するための原理です。それは、統治を前にした絶え間のない経済的法廷のようなものなのです。十九世紀が、統治行動のいきすぎを前にしてそれに対抗するために一種の行政的裁判機関を打ち立てようとしていたのに対し、ここには、厳密に経済と市場の観点から統治の行動を評価すると主張する経済的法廷があるということです。

p.112
「今のところ、社会主義の自律的統治性があるとは私には思えません。」

p.113
「社会主義にふさわしい統治性はいかなるものとなりうるだろうか。社会主義にふさわしい統治性はあるのだろうか。厳密に、内在的に、自律的に社会主義的でありうるのは、いかなる統治性であろうか。いずれにせよ、実際に社会主義的な統治性があるとしても、それは社会主義およびそのテクストの内部に隠されているのではないということだけは心得ておきましょう。そのような統治性を社会主義から演繹することはできません。それは発明されなければならないのです。」 (草稿)「社会主義は自由主義に対する代案ではない。それらは同じレヴェルに属しているのではない。もっとも、それらが衝突したり、それらが並び立たなかったりするいくつかのレヴェルがありはするが。こうしてそれらの不幸な共生の可能性が生じるのである。」

p.181
「新自由主義者たちが思い描いているような、市場に従って調整される社会、それは、商品の交換よりもむしろ競争のメカニズムが調整原理を構成しなければならないような社会です。そうした競争のメカニズムが、社会において可能な限りの広がりと厚みとを手に入れ、さらには可能な限りの容積を占めなければなりません。すなわち、獲得が目指されるのは、商品効果に従属した社会ではなく、競争のダイナミズムに従属した社会であるということです。スーパーマーケット社会ではなく、企業社会であるということ。再構成されようとしているホモ・エコノミクス、それは、交換する人間ではなく、消費する人間でもありません。それは、企業と生産の人間です。」

「「アート」に直結した内容というオマル マンさんの指摘は、私は分かりますね。塩谷氏が、日本の「核共有」の問題に(それそのものには、自身の否定的な見解を示した上で)触れた箇所。」

塩谷賢「(「市場」の宿主に)逆らってもやりたいことがあるかどうかよ。」
塩谷賢「さて、日本はそれを持っているでしょうか?」

「「(「市場」の宿主に)逆らってもやりたいこと」。」

「アート。」

O「「日本は12歳の子供だ」、とダグラス・マッカーサーは言いましたが、今この戦争に際し、まさに、その少年が顔を出しているような気がしているのです。塩谷氏を眺めつつ、私は(不思議ですが)そのことを考えていた。率直に言ってこの国の自称「人間」に「経済」が理解できるのか? 限りなく、疑わしい。」

K「少年=ピーターパン。」

O「ヨーロッパやロシア人は、日本というと「ああ、あのcawaiiの国ね」と。cawaii=可愛い。」

K「ちょっと前は、きゃりーぱみゅぱみゅとか。」

O「きゃりーぱみゅぱみゅを防衛するために核を保有すべきだろうか? その価値はあるだろうか。」

K「(笑)。そういう論点ですね、端的に言えば、塩谷氏の提示は。」

O「優れた男ですね。茂木の10倍は優れている。塩谷氏。」

K「守るものなんかないんだから、「核」なんかいらねえだろうと。茂木氏が言う、「人間」って何?と。想定が違う、「人間」ではなく「個人」だろうと。「お前は、個人か?」と。」

O「そういう繊細な思考力は、茂木氏にはない。塩谷氏は、むしろ我々と「対談」するべきである。」

K「きゃりーぱみゅぱみゅ-会田誠に癒着している、アメーバではないのか?、と。」

O「会田誠を守るために核保有には踏み切れないですねぇ...さすがに。」

K「うん、質問してみたいですね。」

O「むしろ、よろこんで、敵に差し出す(笑)。」

K「目に見えている。」

O「きゃりーぱみゅぱみゅも、会田氏も、なぜか、ロシアの風景に似合う気がする。あの極寒の地で、二人で小屋でいる姿が。絵になる。」

「塩谷氏は、理性的な展開をしているが、今我々は、その先にある「ロマン=アート」を言語化しているわけですけど。」

K「そうですね、ありえない言語化ですね。」

O「ありえない(笑)。でもスッと出てくるものですね。やはり。」

K「私はね。」

O「そうですね。一般では無理ですね。」

K「だって、それ以外何がある?と。」

O「ないない(笑)。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?