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【書評】宮元啓一『新訳 ミリンダ王の問い ギリシア人国王とインド人仏教僧との対論』佐藤哲朗= 日本テーラワーダ仏教協会編集局長


花伝社 (2022/2/21)

『ミリンダ王の問い(ミリンダパンハ)』は、アレクサンドロス東征に端を発するギリシア系植民国家の支配下にあった紀元前二世紀頃の北西インドにおいて、仏教僧侶とギリシア系国王の間に交わされた対論を記録したパーリ仏典である。同書は中村元・早島鏡正両氏による一九六三年の東洋文庫版全三巻の訳が定本となってきたが、現在は高価なオンデマンド版か固定レイアウトの電子書籍を購うしかない。宮元啓一氏(國學院大学名誉教授)による半世紀以上ぶりの現代日本語訳によって世界哲学史上の重要文献へのアクセスが容易となった。肝心の訳文はいたって平易であり、逐語訳を避けて仏典に頻出する同義語畳みかけは省略するなど可読性を重視している。脚注を省き括弧内で語釈しているため、初学者が思考を寸断されることも少ない。

訳者が「本書の見るべき論点――あとがきに代えて」で記すとおり、西暦紀元前三二七年にインド侵攻したアレクサンドロス大王は、大哲学者アリストテレスを家庭教師にして育った。その遠征軍にも多数の哲学者・博物学者が同行していた。ギリシア的思惟とインド的思惟の対論と評される『ミリンダ王の問い』だが、アレクサンドロス東征から百五十年以上を経たインドの思想・哲学・宗教界は、すでにギリシア哲学体系の衝撃を多分に受けていたのである。仏教部派では、ナーガセーナ長老の属する説一切有部の教学にそれ(アリストテレスのカテゴリー論とデモクリトスの原子論)が色濃く反映されていたと訳者は指摘する。つまり「両者の哲学的な発想法の間に、越えがたい溝がさしてなかった」のだ。そもそも、本書の失われた原典はギリシア語で記された可能性が高いのである。

現存する『ミリンダ王の問い』は神話的潤色が甚だしい序話を除けば、第一回と第二回の対話を収録した第一篇第七章まで(本書38~108頁)が古層であり、その部分からは、生き生きとした対話の息遣いが伝わる。ミリンダ王は一級の知識人であると同時に、熾烈な権力闘争を勝ち抜いた為政者でもあった。その問いは勿体ぶった宗教的観念に淫しない素直な批判精神に根ざしており、無我の論証、輪廻的生存の根拠、因果応報のメカニズム、ブッダの実在性などを巡る問題意識は現代人にも十分通じるだろう。

ナーガセーナ長老は本格的な対話を始めるに先立ち、自説に固執して感情的に異論を潰す「王者の論法」を退けて、対話を通じて柔軟に見解を修正する「智者の論法」に拠ることを条件とした。北西インドの覇者が喜んで「智者の論法」に参じたことで、『ミリンダ王の問い』は二千年以上の命脈を保つ古典たりえたのである。インターネットに覆われた地球の東西南北で「王者の論法」に明け暮れる我々に、後世に資する対話の花束を紡ぐことは果たして可能であろうか?

佛教タイムス2022年6月9日号


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