テーラワーダ仏教と戒律の実践
2020年2月8日に開催された佛教大学宗教文化ミュージアム シンポジウム「現代日本の戒律と生活倫理」で配布されたパンフレット(報告レジュメ集)に寄稿した原稿です。
テーラワーダ仏教と戒律の実践
佐藤哲朗 日本テーラワーダ仏教協会編集局長
戒律仏教から瞑想仏教へ
スリランカや東南アジアで継承されてきたテーラワーダ仏教(上座仏教,上座部仏教)は、出家比丘サンガ(僧伽)のシステムが堅持されていることから、近代化以降の日本では長らく「戒律仏教」というイメージでとらえられていました。革新的で融通無碍な大乗仏教に対して、伝統墨守で形式的な小乗仏教ではないか、というさらに古い固定観念をお持ちの方もおられるかもしれません。
しかし、近年はヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス、気づきの瞑想などと呼ばれるテーラワーダ仏教由来の仏道実践に国内外で注目が集まり、アルボムッレ・スマナサーラ長老をはじめとした伝道師たちも瞑想実践の普及に努めていることから、テーラワーダ仏教といえば「瞑想仏教」というイメージに塗り替えられつつあるように思います。
とはいえ、テーラワーダに限らず仏教とは戒定慧の三学によって成り立つものですから、その第一である戒(sīla)の実践が大切であることは言うまでもありません。私どもの団体の主催行事も、必ず三帰依して戒律(五戒)を受けるところから始まります。
在家の五戒
テーラワーダ仏教の出家比丘は227項目の比丘戒律(pāṭimokkha波羅堤木叉)によって修行中心の共同生活を送ります。しかし、圧倒的多数を占める在家信徒が実践している戒はいわゆる五戒です。生き物を殺さない、与えられていないものを取らない、非道徳的な性交渉をしない、嘘いつわりを述べない、酒など酔わせるものを摂取しない、という五項目です。満月・新月等の布薩(uposatha)の際には、正午以降は食事を摂らないなど、出家見習い(沙弥)とほぼ等しい八戒や十戒を受ける場合もあります。
教団追放を意味する波羅夷(pārājika)など罰則規定がある比丘戒律とは違い、在家の戒は各自が自主的に受けて守るものなので、破戒に罰則があるわけではないし、宗教的にバチがあたるわけでもありません。ただし、五戒を守って生活することは修行して解脱に達するための土台であるし、輪廻の中でよい境涯(仏教に出会って修行できる環境)に生まれるために欠かせない条件である、とも信じられています。
戒は釈尊から頂いた宿題
戒律というと堅苦しい苦行のようなイメージがあるかもしれませんが、五戒を受ける際の言葉を直訳すると「(殺生など)から離れるという学処を受持します」となります。学処(sikkhāpada)とは、「学習課題、宿題」と意訳できると思います。つまり、テーラワーダ仏教の戒律というのは、お釈迦さまからいただく課題、宿題なのです。
当然、いつも課題で100点を取れるわけがありません。むしろ、失敗することばかりです。私たちが学生時代に経験したように、遊び呆けて忘れてしまうこともあるでしょう。ですので、毎日、三宝(仏法僧)の前で懺悔して、また新たに課題をもらって、チャレンジすることになります。大学などで学ぶ学生と同じく、私たちも徐々に向上しなくてはなりません。たとえ同じ五戒を受けるにしても、その「学習課題、宿題」としての意味は仏教徒一人ひとりの心境の深まりとともに、変化してゆくのです。
戒律の完成
戒律実践は、はやみくもに歯を食いしばって守り続ける我慢ゲームのような修行ではありません。日本でも「七佛通誡偈」と呼ばれ親しまれるダンマパダ(法句経)の183偈では、「一切の悪(罪)を犯さないこと、善に達すること、自ら心を清めること、これが諸佛の教誡である」と説かれています。「善に達する」とは修行を完成すること、解脱に達することと同義です。そこに至る方法が「自ら心を清めること」となります。ですから、テーラワーダ仏教の戒律実践にはゴールがあります。最終的には、生き物を「殺さない」ように励むのではなくて、「殺せない」ところまで進めば戒律は完成なのです。その人はなにも特別な戒律を受けなくても、善悪判断するまでもなく、悪行為は一切できなくなっているのです。ついでに言えば、善行為にすら囚われないのです。いわゆる覚った人、聖者と同義です。
マインドフルな戒律実践
テーラワーダ仏教の戒律実践は、マインドフルネスと呼ばれる気づき(sati)の実践にもなります。五つの「学習課題、宿題」が、あたかも海上で波浪や潮位の変化を知らせるブイのように、自己観察の手がかりになるのです。たとえば、自分の心に「殺生を離れる」というブイが設置されていれば、心に殺意、あるいは殺意まで行かなくても誰かを攻撃したくなるような衝動・思考が起きた時、それにすぐ気づくことができます。「嘘・虚言から離れる」というブイがあることで、嘘をついてでも言い逃れをしたくなる保身の気持ち、エゴの弱みもすぐ発見できるのです。心に殺生等につながる意識の波が起きた時点で気づけば(satiを入れれば)、具体的な行動に至る前にその波は鎮まってしまいます。これは戒律条文を用いた瞑想修行(bhāvanā)とも言えるでしょう。
テーラワーダ仏教の瞑想修行は、隔離された空間でイメージ・トレーニングに勤しむような神秘的な行ではありません。それは、「いま・ここ」の自分自身のありようを客観的に見つめる「自己観察」です。五戒などの戒律も、自己観察のツールになるのです。このような気づきの訓練を続けると、私たちの身口意(身体・言葉・思考)の行為は、かならず原因によって生じ、原因が無くなることで滅する、という因果法則(縁起)の発見に繋がります。戒律の実践もまた、覚りの智慧に通じているのです。
戒律の「こころ」とは?
とはいえ、あまたの戒律の条文にひっかかって途方にくれる仏教徒は今も昔もいました。五戒を指針として生きる在家信徒はともかく、227項目もの戒律(pāṭimokkha)を守って生活する出家者にとっては、ときに深刻な悩みになったようです。(心の中に227もブイを浮かべて生活するのは至難の技でしょう。)
経典の注釈書には、戒律の煩わしさに疲れて還俗しようとした比丘に、お釈迦さまが「比丘よ、もしもただ一つのことを守ることができるならば、そなたは他のことを守る必要がありません。それは自分の心のみを守ることです」と説法されたエピソード(ダンマパダ注)が記録されています。同じようなケースで、釈尊が「それではあなたは今後、身口意の三つを守りなさい、つまり身口意による悪業を慎みなさい。俗人には還らずに修行に戻りなさい。この三つの戒だけを守りなさい」と述べたという説話もあります(ジャータカ注)。唯一、心を守ること。身口意の行為を慎むこと。これこそは、戒律条文に隠れて忘れられがちな戒律の「こころ」と言えるでしょう。
テーラワーダ仏教の世界で、多くの人に愛好される『慈経(Mettasutta)』には、生きとし生けるものすべての幸福を願う無量心、慈悲(mettā)を完成するために保つべき徳目が十五項目にわたって列挙されています。そのまとめは、「智者たちが非難するようなことは些細な過ちでも犯さない」なのです。仏教とは、智慧の教えです。無知な俗世間から何を言われたとしても、別に気に病むことはないのです。ただ、私たちを真理へと導いてくれる、智慧ある方々から非難を受けないように気づきをもって生活すること。つまり、聖者が示した聖者に至る道を歩むこと。この経文も、戒律の「こころ」というものを過不足なく表しているのではないかと思います。(了)
以下は当日の発表をもとに構成したスライド動画です。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~