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26 フォンデス もう一人の白人仏教徒|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇

神智学協会と日本仏教を断ち切った男

オルコット二度目の来朝(一八九一年)は前回とは打って変わって寂しいものとなった。その背景を探ってゆくと、日本仏教の神智学協会への信頼が、ある時期から大きく揺らいでいたことが見て取れるのだ。そこでキーパースンとして登場するのが、「もう一人の白人仏教徒」である。皆さんは我が『大アジア思想活劇』冒頭、野口復堂が明治二十年代初頭の仏教・キリスト教の紛争を語ったくだりに登場した、フォンデス(C. Pfoundes)なる御仁をご記憶であろうか?

同志社に拠ったキリスト教徒の活発な布教活動に歯ぎしりした京都の仏教徒たちが「然らば西洋人にして仏教を信ずる者をお眼にかけんと。税関の官吏がまだ定役衆と呼ばれて、裃を着けて居る時代に、神戸で水先案内を職として居って年中ウヰスキー浸しのケアプラン・フオンデスを引っ張りだし、比叡山に受戒せしめ。フロツクコートに袈裟を掛けさせ、壇上から「ナナイヤイ、ヘナハナシヤケドモ、ヤマボケノ、メノ、ヘトツダニ、ナケゾカナシキ、ウタアリマスウタアリマス」と言わしめた……」この道化役フォンデスである。

彼が実在の人物であることはすでに紹介した。一八四〇年生まれのフォンデスは一八六三年(文久三年)に来日し、英国海軍士官として明治維新前後の日本に滞在すること十年以上に及んだ(一八七六年まで滞在)。まさに「税関の官吏がまだ定役衆と呼ばれて、裃を着けて居る時代」から日本にいたわけである。はたして本当に「水先案内を職として居って年中ウヰスキー浸し」だったか否かは分からないが、日本に長期滞在するなかで、フォンデスが仏教に惹かれていったことは確かなようである。日本びいきのフォンデスは名前に「普恩出壽」とあて字し、重井主内という日本名も持っていた。イギリス帰国後はロンドンに住み『日本宗教論』(原題不明)、『扶桑耳袋』*68といった著書もあったというから、それなりのインテリだったのであろう。

日本仏教の代弁者

フォンデスはイギリスにおいて日本文化の専門家として各地で講演活動を行った。キリスト教宣教師が吹聴する日本に対するネガティブな言説にいちいち反駁し、日本人の道徳心の高さを称賛したという。また彼は、誤解されがちな日本仏教の代弁者としても敢然と論陣を張った。当時の英国で自称ブッディストの大半は神智学協会関係者であった。彼らはブラヴァツキーを通じヒマラヤのマスターから直々に、「密教」の教えを受けていると妄想していたので、当然のことながら極東の辺境に伝わる日本仏教にはすこぶる冷淡だった。奇妙な話だが、「東洋の神秘」に憧れた西欧のオカルティストたちは、その神髄をブラヴァツキーを通じた「マハトマの霊言」によって授けられているという自負を持つことで、実際にアジアに伝えられてきた仏教やヒンドゥー教を神智学の折衷神学のパンテノンに都合よく位階付け、「いい線いっているが、ヒマラヤのマハトマが保持する〝純粋な密教〟から見ればしょせんは堕落している」と見下す意識も同時に胚胎させていたのである。思想ってのはホントに厄介な代物だ……。そして、そんな神智学徒の傲慢さに敢然と噛みついたのがフォンデスであった。

……貴誌へ寄稿した某氏は「支那(中国)と日本の仏教は儒教及び神道の説がこれに混入して大いにその本元の正理を破壊しているので、純正に仏教を攻究する者はこの国の仏教を吟味しても利益を得ることはなはだ少ない」と述べている。しかしこれは全く誤謬の論である。支那はその仏教をインドより直伝し、日本はこれを支那・朝鮮及びインドより伝え、大小乗の諸宗はことごとく備わり、いわゆる密教の如きはこれを事密・秘密・若しくは理密と称して日本に現存している。このように日本は実に仏教文学(Buddhist Literature)においては世界の冠たる地であって、有力なる研究者の利益を得るに恐らくは日本に過ぐる国はないであろう。

『海外仏教事情』第十集、明治二十三年五月二十七日。原文の文語体を口語体に直し表現を改めた。

「海外宣教会ロンドン支部」を設立──神智学批判を展開

先に引いたのは、フォンデスがロンドンで発刊された雑誌『明星』*69に寄稿したという一文である。「純粋な仏教」から変容していようが、支那という仲買人を通していようが、仏教東漸以来千数百年にわたってそれなりにのっぴきならない事情で現在の姿に至った日本仏教。その存在意義を、最大限に評価するフォンデスの姿勢は、いまだ西欧へのコンプレックスを胸に抱いたまま「海外仏教事情」に興味津々だった日本の仏教徒にとってまこと頼もしく見えたことだろう。日本にたびたび便りをよこし、釈雲照を尊敬していたというフォンデス。明治二十三(一八九〇)年の春、彼は日本仏教界から「海外宣教会ロンドン支部」の設立を委任されその地方幹事に就任する。事実上は一枚看板だったのだろう。「斯かる光栄を賜りしは本懐の至に堪へず」と書簡をしたためたフォンデスは、さっそくロンドンの「仏教事情」を日本に紹介し、当地における神智学協会の悪評を報告し始めた。曰く、

 近来はオルコット氏やブラヴァツキー夫人らに向かって敵意を表す者があります。かつ小生の講述する所は仏教の純粋なる道義を布演することを以てその目的としておりますから、ヨーロッパ・アジア両州において誹謗を招いている神智学とは、なるだけ関係を絶つよう心がけています。ことにブラヴァツキー夫人は仏教を教うるにあらずと言い、オルコット氏は余は仏教徒なりと明言している。同じ神智学者にして一は仏教を教えず一は仏教者なりというのですから、これを聞く者は神智学とは何等の学なるやと惑える者が多いのです。而して近来神智学に加入した男女のなかには公会演説で仏教を誹謗するものもいます。そのような人物は真正なる仏教を弘通することに毫も注意をしない愚人というべきです。

原文は文語体。口語体に直し表現を改めた。

ダルマパーラの苦言

この書簡が掲載された『海外仏教事情』第十集(明治二十三年五月二十七日)には、セイロンのダルマパーラから、フォンデスの反神智学活動に苦言を呈する書簡も同時に掲載されていた。曰く、

 貴会が欧州において同志者を得たことは賀すべきですが、新友が旧友を誹謗するような行為は、私たちは貴会のためにも是とできません。近年、神智学協会が欧州各国にて仏教弘布のためなしたる功績は、他の企ての及ぶところではないことは既に貴会もご承知のことでしょう。それをいまになって神智学協会を非難してその功績を無みするのは甚だ好ましからざることです。……フォンデス氏はマダム・ブラヴァツキー女史とは友人であると公言しておきながら、彼が日本に送る書信中には神智学協会及びその創設者に対して敵意を表しているとは甚だ了解しがたいことです。

『海外仏教事情』第十集

ダルマパーラは同じ書簡のなかで、日本の「海外宣教会」が神智学協会の頭越しに海外で支部を設立したことにも疑問を投げかけ、「オルコット氏及び神智学協会は既に仏教のため各国において少なからぬ実績を上げているのは事実なのですから、私たちはその功績を認め、これに謝する義務があると考えています」とまで述べている。この時点では、フォンデスの神智学批判とダルマパーラの擁護論を両論併記しているとはいえ、同じアジアの仏教国、セイロンと日本を隔てる温度差は明白であった。

高楠順次郎の英国留学

続けて『海外仏教事情』第十一集(明治二十三年六月三十日)には、在ロンドン会員小林順次郎のフォンデス会見記が掲載されている。聞き慣れぬ名前だがこの小林順次郎、実は戦前日本を代表するインド哲学の権威、高楠順次郎(一八六六〜一九四五)の筆名である。オルコットとダルマパーラが最初に来日した際、病に伏せるダルマパーラを献身的に介護した高楠の回想録をご記憶の方も多いだろう。

高楠順次郎

当時の彼は沢井洵といったが、筆名の小林洵を名乗ることもあった。二十二歳で神戸の高楠家に婿入りした彼は幼名「梅太郎」を「次郎」に格下げし、さらに「洵」を従順の「順」に変えて養子向けの順次郎と改名したのである。明治時代の男尊女卑とはいったい何のことかと思うようなスゴイ話である。ロンドンで彼があえて「小林順次郎」を名乗ったあたり、屈折したプライドがちょっぴり透けて見えるようで面白い。さて、沢井洵改め高楠順次郎が婿入りの条件として高楠家に呑ませたのは、欧州への留学であった。明治二十三(一八九〇)年三月神戸を発ってイギリスに向かった高楠は、途中コロンボでダルマパーラと旧交を温め、四月十九日、霧むせぶロンドンに到達したのである。

十九世紀末のロンドンといえばまさに近代文明の中心地である。明治オノコにありがちな立身出世の夢を抱き、政治学か経済学をやって政財界に雄飛したいと夢想していた高楠だが、南条文雄の紹介状を持って訪ねた先がいけなかった。相手は近代サンスクリット学の巨人マックス・ミューラー博士。

Friedrich Max Müller (1823-1900)

ミューラーは高楠に向かって「君は英国までわざわざ勉強に来たわけだが、いったい趣味のために学問するのか、あるいは金儲けのためか?」と問いただした。まさか「金儲けのためです」とは答えられない。「前者であります」と返答した高楠に、博士は「それなら人のやっていることをしては、第一級の人にはなれない。人のやらないことをしなくてはダメだ。インド学という学問は素晴らしい。大いにこれをやれ、それにはまずサンスクリット語とパーリ語だ。学問はこれに限る」と説き伏せられて、高楠順次郎はマックス・ミューラーのもとでインド学の道を歩むことになったとさ。

高楠とフォンデスの交流

閑話休題。右も左も分からないロンドンに宿を定めて早々、高楠はフォンデスを訪ねた。フォンデスは宿泊場所の治安の悪さを説き、下宿が定まるまで彼を自宅に逗留させた。「氏は財産家にはあらざれども自身と若き妻の外親族なく今日海軍省に在勤の月給ハ生計に余りあり。氏は好んで書物を貯へ日本語の書物およそ三千巻もあるべし……」壮年のフォンデスは三十代の若い妻を娶っていた。「氏の日本の思想に富み日本人と少しも変わりなし。日本語を話すの巧みなる小生よりも上等なり。順良にして謙遜なる人なり」高楠はフォンデスの人となりをかなり好意的に伝えている。英国では彼は日本通として一目置かれた存在であり、英語の仏教書・日本に関する書物のなかでもフォンデスの言葉がたびたび引用されていた。彼の講義を編集した書籍も数十部発行されていたという。そして肝心なのが神智学との関係である。

「神智学者は仏教々々と云へるも(フォンデス)氏に駁せらるるときは一言も解答し得ぬなり。かつ神智学者の説く処ブラバツキーの云ふ処オルコツトの云ふ処とシネツトの云処と異りその説明に苦しみ……」ついにブラヴァツキーはフォンデスに手紙を送り「自分の所説は正しく秘密仏教であり自分は仏教徒ではない。オルコットは自分と説を異にしてシャム仏教を信じ、シネットは秘密仏教を説くが彼の仏教はシンガポール対岸のスマトラ国の仏教である」云々と支離滅裂な答えを述べたという。

対するにフォンデスの立場は明快である。彼の講演が終わると聴衆は必ず「神智学と仏教の関係は如何なものか」と問う。フォンデスは「神智学者には仏教の一部分を説くものあり。仏教には神智学分子なし。故に仏教は仏教なり。神智学は神智学なり」まったくそのとおりである。高楠によれば、フォンデスはことさらに神智学を攻撃することなく、ただ神智学徒が繰り広げる不毛な争闘に仏教が巻き込まれぬよう気を配っていたという。しかし高楠が聴講したフォンデスの講演において彼は「ブラバツキー氏の発見せりといふ神智学はみな出所ありてスイーデンボーグの一部猶太のエシクブラマ教のエシク基督教仏教等を混したるものなり。東洋の書物を読めば追々その出所を発見すべし」と述べ、「神智学を信ずれば凡ての学理を棄てざるべからず。凡ての学理を信ずれば神智学を止めざるべからず」とまで断言したもので、聴衆の神智学徒が反発して大紛糾となったこともあった。

神智学をめぐるカオス

高楠は書簡のなかで、「右のごとく小生一々今日まで感覚に浮びたる通り申込候へども決してオルコットを棄ててフヲンデスの方へ偏倚らざる様に望み居候。この両方を都合よく感情を害せぬ様やはり神智会の支部をも日本に成立たしめ、日本の神智会は純粋に仏教なるを以て決して争論等なしとの手本を示す様にせば宜しかるべし。仮令たとひオルコツトは善良にせよ、神智学者の中間に争論あるは免かれ難き事情なり……」と述べ、神智学と日本仏教がどのような距離感をもって交渉すべきか苦悩する心情を吐露している。

ブラヴァツキー死去の前後、神智学協会は幹部間のイニシアティブをめぐる暗闘に明け暮れていたのみならず、神智学をライバルと見なすキリスト教会、心霊主義(心霊学)サークル、そして前述のマックス・ミューラーらインド学研究者との間で紛糾が絶えなかった。ブラヴァツキーの後釜に収まったアニー・ベサントが、もとフェビアン協会に属した社会主義の女闘士であったように、神智学はヨーロッパの急進思想家や社会革命家の坩堝であった。高楠ならずとも、神智学をめぐるヨーロッパのカオスに直面しては、能天気に〝西欧における仏教の流行〟を喜べなかっただろう。

オルコット二度目の来日が歓迎されなかった背景を覗いてみると、そこには一概に日本仏教の宗派意識や閉鎖性、ことなかれ主義に非難を帰するわけにはいかぬ、複雑怪奇な「海外仏教事情」があったのである。ちなみにここまで引用したのはすべて日本語で書かれた資料である。視点の偏向は否めないにしても、明治時代の日本仏教徒が精度の高い西欧オカルティズムもとい「海外仏教」情報を把握していたことに驚かされる*70。

その後のフォンデス

最後にフォンデスと日本仏教の関係の後日談に触れて、この長々とした章を閉じたいと思う。明治二十六(一八九三)年一月末、フォンデスは待望の日本再訪を果たした。日本の海外宣教会・反省会ら仏教界の面々は諸手を挙げて遠来の白人仏教徒を歓待した。オルコットと違って流暢な日本語を操るフォンデスの仏教講演はオルコット最初の来日時を髣髴とさせる盛況であったという*71。折しも前年からこの年にかけて、井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」と題した論文で、教育勅語不拝事件を起こした内村鑑三らキリスト教徒を排撃する事態が起きており、これに仏教界も同調。反キリスト教を叫ぶ破邪顕正運動は軽薄の度を深めながら、絶頂期を迎えつつあった。

フォンデスが比叡山で受戒したのもこの時だというから、野口復堂の「フロツクコートに袈裟を掛けさせ……」云々は記憶の混濁かもしれない。「滞在中は日本仏教の教理を研究したい」というフォンデスの殊勝な姿勢は坊さん連を喜ばせたが、彼の挙動には不可解な点もあったらしく、仏教新聞にはフォンデスをめぐるゴシップが飛び交った。西本願寺がフォンデスのために仏教講義の席を用意したのに、講演会にかこつけて欠席したとか、釈雲照に会見した際に失礼があったとか、他愛もない行き違いのような話なのだが……。

『明教新誌』三月四日号に掲載された「フオンデス君に與ふ」(松下諦信)には「事不倫に失すれども之を譬ふるに足下は尚講談師ブラツクの如きか。彼れブラツクは講談に於て日本講談師の先輩を圧倒するの伎倆あるにあらず。然れどもその外国人たるの故を以て人争ふて之を聴かんと欲す。けだし聴くにあらず実はブラックの講談を見るなり」と述べ、フォンデス人気をイギリス人落語家として一世を風靡した快楽亭ブラックにたとえている。ブラックの落語が本当にキワモノだったか否かは別として、こりゃああんまりな言い草だ。

毀誉褒貶の激しかったフォンデス。彼がいつまで日本に滞在して、どんな晩年を過ごしたのか、日本仏教との関係はどうなったのか、まだ解明されていない。ただしフォンデスは日本滞在後、シカゴ宗教大会に出席する予定と報じている記事も残されているので、彼がシカゴを経由してイギリスに帰国した可能性はあるだろう。

山伏姿のフォンデス
https://www.maynoothuniversity.ie/news-events/irishman-led-first-buddhist-mission-west

電書版追記+

フォンデスの経歴については、本書の刊行後にかなり解明が進んだ。フルネームはCharles James William Pfoundes、一八四〇年アイルランド生まれ(本書発刊時には一八三四年としていたが、電書版で訂正した)。一九〇七(明治四〇)年十二月二日、日本の神戸で亡くなっており、神戸外国人墓地にフォンデス墓が現存する。Facebookの「能海寛研究会」ページには、彼の墓石や山伏姿の写真が公開されている。墓碑銘には英文で享年八十一歳と刻まれており、アイルランド側の調査で一八四〇年とされた生年とは大きく食い違うが、理由は不明である。中西直樹・吉永進一『仏教国際ネットワークの源流 海外宣教会(1888年~1893年)の光と影(龍谷叢書)』(三人社、二〇一五)の第二章7節「フォンデスの伝道と欧米仏教の終焉」には明治二十年代における彼と日本仏教の関係が詳述されている。同論文は、吉永進一『神智学と仏教』(法蔵館、二〇二一)に再録された。


註釈

*68 C. Phondes,〝Fu-so Mimi Bukuro. A Budget of Japanesenotes〟(Japan Mail Office Yokohama, 1875)横浜が出版元となっているから、これはフォンデスが日本滞在中の著作だろう。赤井敏夫先生によれば、大英図書館目録にはフォンデスの著作として〝Folk Lore of Old Japan〟(1880)、〝Japanese Art Treasures Catalogue〟(New York? 1876 彼はフェノロサよろしく日本の古美術品売りさばきでもやってたんだろうか……)〝Some Japan Folk-tales〟(London, 1879)などが確認できるとのこと。

*69 赤井敏夫先生より『明星』はブラヴァツキー・ロッヂの機関誌〝Lucifer〟ではないかとのご指摘をいただいた。同誌の発刊は一八八七年なので、『海外仏教事情』がほぼリアルタイムで翻訳紹介したとすれば、年代的には矛盾しないとのこと。ルシファーとは辞書的には明けの明星(金星)、サタンを意味するが、神智学を末端とする西欧オカルティズムの神話体系において独特の役割を果たしてきたという。

*70 ちなみに後述する一九五二(昭和二十七年)年の第二回世界仏教徒会議(東京)では、仏教思想に関する検討を行った第一部会で五項目の決議がなされたが、その第四に「印度および霊智会と仏教との親和に関しては、その趣旨には賛成するが印度教及び霊智会の側に於ても世界宗教としての仏教を認識せられることが望まれる。」という決議項目が含まれていた 。(『中外日報』昭和二十七年十月四日) 海外代表団のなかにも、神智学協会の肩書きを持った者がいた。 二十世紀の半ばを過ぎても、神智学と仏教との腐れ縁はまだまだ続いていたのである。

*71 川合清丸「英人フヲンデス大佐の演説筆記を読む」(『川合清丸全集』第九巻、一七四〜二〇二頁)に、同年二月十九日坂本(近江)の交道館で開かれたフォンデスの演説会の速記と川合の評が掲載されている。フォンデスは簡単に自分の履歴を述べ、あとは諄々とキリスト教を受け入れてはならないこと、仏教を積極的に世界へ広めるために日本人は奮起すべきことを説いている。本章の執筆にあたっては、吉永進一先生(舞鶴工業高等専門学校)より、当時の仏教系雑誌・新聞の資料コピー提供を含めて多大なご協力をいただいた。謹んで感謝いたします。

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