柊夕美子
『絵に描いた餅』 それは役に立たないことの例え。計画などが実現する可能性のないこと。の意。 わたしの思考はなんの役にも立たないかもしれない。 計画性などない。それでもわたしは書いていきたい。 その思いだけでわたしは筆を走らせる。 そんな思いで書き綴る備忘録。
恋する乙女を全力サポートするまとめ。
たまには酔いたくなる夜もある。そんな夜に浸りたいポエムたち
きっとあなたもわたしも気持ちが離れる時が来る。 きっとずっとこのままということはないのだろう 良いことも悪いことも永遠ではないから。 それでも良いと思えた。 刹那的に生きるのが良いと思った。 私たちは一瞬一瞬に変化している。 空の雲が流れるように。 2度と同じ形の雲を見ることはないように。 いつかあなたと永遠に会えない日が来ても それは自然なことだから受け入れるよ。 自然に終わる気持ちなら自然に次の場所へ導かれるものだから。
わたしは今もあの頃の青春の日々に自分の精神だけを引き戻して時々思い出巡りすることがある。 いつきてもここはいい。潮風の匂いと灯台が見える海辺の景色。青春時代の彼はそのままその時のままそこに佇んでいる。わたしは今も彼の心の日記をそっと覗いている。それを除く時のわたしはまるで宝箱を開けるような気分だ。 彼の分身のようなその日記の数々には、普段自分語りをしない彼の思考が綴られている。彼は自分がないと言った。でもそれは違った。彼は自分がないのではない。わたしが彼を引き出すことができな
人は自分がどんなに恵まれた環境にいても、それが当たり前の日常になってしまえば、能動的に幸福感を感じ続けることは難しいと思います。自分の境遇と誰かの境遇を比べて一喜一憂することにおいても幸福を感じることはありますが、その方法は同時に不幸を感じることもあるのです。自分より数段恵まれているように見える他者と自分を比較することによって、僻むようになるからです。 足るを知る。という言葉があります。時には自分のことをとても幸福な人間であると、半ば洗脳的に強制的に思い込むように自分をコン
自分はきっと何者かになれるのだろう。と、信じていた15の私は、あっという間に何者でもない25の私へと変貌を遂げていた。何も変わっていないのだから変貌という言葉はおかしいという言葉も聞こえてきそうだが、いや、しっかり変貌している。それは年齢や肉体だけの話ではない。希望に満ち溢れ、まだまだ時間はたっぷりあるはずだった輝かしい若者から、焦りや不安、絶望が頭をよぎりつつも日々もがく、どうしようもない大人へと変貌を遂げたのだ。10年前の自分はいったい何だったのだろう。振り返ったところで
今日は沙也加さんの36歳のお誕生日。 月日が流れるのは本当に早いですね。 沙也加さんが旅立ってからもうすぐ10か月が経とうとしています。 私はこの記事をずっと自分の中に秘めていようと考えていました。 公開しても沙也加さんには届かない。自己満足な内容だと思ったからです。 しかし、あれから10か月近く時が過ぎても私の中ではまだまだ現実が受け止め切れていません。きっと多くの人々もそうなのだと思います。私は充さん沙也加さん夫婦が本当に大好きでした。生前の沙也加さんの心はきっともうすで
両親を大切にしましょう。という習慣は昔からあった。 母の日、父の日、敬老感謝の日。 もちろん、いままで自分を育ててくれた人たちに対する感謝を持て。 ということなのだろう。両親を大切にすることは 世間体、伝統、常識とも言える。 しかし、大切に丁寧に愛されて育ったわけではない子供まで 両親を無下にできない。自分が大人になった今でも大切にする。 というのは本能がそうさせるのだろうか? 親になれば、特定のホルモンが分泌されるなどしてわが子への愛情が深まり、関心が出てくる。という現象が
物質的にどんなに豊かになっても、ふと広い空を見上げた時、何もないはずの空に見えない天井のようなものがあるような気がして、狭いところに押し込められているような気持ちになるのです。 海や大陸や空は無限に広がっているのに。 振り返ると私は同じような場所をぐるぐる回っているだけのはずです。私の行動履歴を地図に色付けしてみれば、わたしの行動範囲など限られていて、狭いところに留まっているにすぎないのです。にも関わらず、ここまでしか出ることができないと制限をされて仕舞えば、たとえその範囲
教わる側は、教える側が教えやすいように質問の仕方を考えよう! 確認をお願いする側は、確認する側が確認しやすいようにどこを確認してほしいのか、わかりやすいようにお願いをしよう! ということは散々言われているのに 教える方はわかりやすいように教えよう! 指示する側は指示された側に明確に指示が伝わるように、わかりやすく指示しよう! 新参者に現状を迅速に把握できる仕組みづくりをしよう! という風潮がないのは何故なのだろう?? 教わる側にばかり想像力や汲み取ることを求める。 教
私は常に人と自分を比べて、一喜一憂する節がある。 SNSが普及してから、誰もが、”井の中の蛙大海を知らず”状態とは程遠くなり、むしろ、”丸腰で大海原に解き放たれた蛙”状態なのではないだろうか。 しかもSNS上では、発信者のパーソナリティについて全てを発信することは難しく、隠れている部分に関しては人は無意識に想像で補い、実際よりも多きく立派に想像してしまう、という心理もある。また、等身大の自分を発信しているユーザーは少なく、誰もが良くも悪くも過大に見られてしまうという節がある。
夢に出てくる光景がなにを意味するのか。朝起きて早々に夢占いを検索する人は少なくないだろう。 私が今日見た夢には驚いた。 まだ会ったことはないが、顔は知っている人が登場した。 正直わたしは、初めて顔を見たときにその人のことを素敵だと感じた。 近々会うことは叶うと思うのだが、私は密かに実際に会うとどんな人物なのか楽しみにしていた。 夢の内容としてはこうだ。 その人の娘(幼い)と私が旅館のような部屋のベッドで遊んでいると、その人が近くにやってきて、娘がどこか別の方向を向いていると
夜中の3時 冷蔵庫からショートケーキを取り出して 箱を開けると、そのまま無造作にフォークを突き刺した。 半分ほど食べたところで、突然私は涙を流した。
人から言われたことを必要以上に過剰に受け止めたり さまざまな方向からいちゃもんをつけたり 屁理屈を言って自分の捉えたいように捉えるのは構わないが、なぜそれを発言者に向けて問いただす必要があるのだろう。 想像力が足りない こういう人たちにも同じことを言えるのか? 自分がこんな状況でも同じことを言えるのか? なぜいちいちIFがでてくる? 目の前の相手の発言をそのままフラットに受け入れればいいのに、もしくは受け流せばいいのに。 必ずしも相手が自分と同じ次元で物事を考えてい
私には定期的に人生に行き詰まるタイミングがある。 それは決定的な問題がある時だけではなく、何気なくモヤモヤしてしまう時もある。刺激がない日々にもわたしは嫌気が差してしまうのだと思う。刺激が欲しいからと言って悪いことをしたいわけではない。ただ、日常の中にほんの少しの非日常を加えるだけで、何気ない日常は鮮やかな世界へと変わる。 普段会わない人と会う。会話をする。人の意見に触れる。行ったことのない場所へ行く。見たことのないものを見る。そのほとんどは1人で体感し、感傷に浸るまでをし
友人が恋愛で右も左もわからなくなっている頃、私はそんな友人たちを俯瞰して見て、アドバイスを求められると論理的に根拠を持って意見できる。 私の恋愛指南に対する友達からの感想は好評だ。 今の本人の状況と本人の意向。相手のことと2人のこと。ヒアリングして状況を整理しながらひとつずつ議論していく。 「どう考えても今この状況はこうするのがいいんじゃない?」 「それで自分はどうしたいの?」 「そう思うならこうしたらどうかな。」 「この場合はこう考えられるからこういう理由でこうするのがい
paraviで配信中のドラマ「シジュウカラ」 本作は漫画原作なのかな。 現時点では第2話まで配信されているので これからの展開が楽しみな作品だ。 主演の山口紗弥加さんが好きなので なんとなく惹かれて見始めた。 opは、水族館とエモい音楽。 切ないラブコメなのかな〜と思いきや 本編は独特な雰囲気。 キャラクターたちの心情が表情だけで描かれている シーンや無言の間、BGMが急に消えるシーン。 不穏な空気が流れる神妙なシーン。 思わず、ん?と耳を疑うような演出。 物語は静か
もう本当しんどい。辛いなあ。 状況が好転する気もしないし。なんなんだろう。 鬱々とした毎日。 自分が招いた結果だとしても、思っていた現実とはかけ離れていて。甘くみていた自分が悪いだけ。わかってる。そんなことは。 自分に余裕がないと、矢印は全部自分へ向く。 辛い。ただ自分だけが。 自分以外がみんな輝いて見える。 私だけどうしてこんなに辛いのだろう。 こうして自分のことばかり。悲観するばかり。 そうだよね。つらいよね。頑張ってるよほんと。 偉いと思うよ。 頑張ってないよ