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「暇と退屈の倫理学」と映画「PERFECT DAYS」と私の退屈

私は休日に予定を詰めるのが好きなんですが、今日は本当にすっかり丸一日予定のない日になってしまい、
このままダラダラ過ごしたら絶対に後悔する!ということで気になっていた映画「PERFECT DAYS」を見て、途中まで読んでいた「暇と退屈の倫理学」を読んだら、かなり親和性が高かった気がして色々考えてしまったのでそういう話です。

私と退屈


そもそも私は退屈というものに関する苦手意識がもともと強くて、大学生時代の長い休みがあまり得意ではなかった、というか今ですら1週間も休みがあると、旅行でもいかない限り「退屈にならないようにどう予定を詰めるか」に邁進することになります。
「暇と退屈の倫理学」的に言うと、「気晴らし」探しに躍起になっているって感じでしょうか。
ハイデッガーがパーティーに行ったけどなぜか退屈してしまった、みたいなエピソードが「退屈の第二形式」の例として出てきて、後にこの「退屈の第二形式は悪いものではないのでは?」と話が展開されていったと思うのですが、まさにこの第二形式の「パーティー」を私は常に探している感じです。
ただ、現実問題として「パーティー(これは比喩であって、実際には飲み会、ごはん、映画鑑賞、美術鑑賞、散歩などなんでもいいのですが)」に行くのはコストも労力もかかるので、できれば自分が楽しめる(=本の中で言う「とりさらわれる」)可能性の高い「パーティー」に行きたいわけですよね。
それがなかなか見つからないというのが、私にとっては大きな問題です。

「何か特定の対象に「とりさわられ」続けることができるなら人は退屈しない」という話も本の中に出てきますが、これも重要な要素だと思っていて、とりさらわれやすいもの=夢中になりやすいものがあれば、「パーティー」のコスパも良くなりそうです。
私のなかでとりさらわれやすいものの1つはバレエ関連ですが、でもわたしは割と飽き性というか、どこまでいっても全ての時間において夢中にはなれないし、あえて努力して夢中になろうとも思えないので、やはり退屈になりかねない時間は発生してしまうのです、今日のように。

退屈とゲーム

私が取りさらわれやすいもう一つのものが「ゲーム」なのですが、私はこのゲームに対してとても複雑な思いを持っています。
その理由の1つは、元配偶者が「ゲームなんてくだらない暇つぶし」論者であったことなのですが、その影響で何度か「ゲーム断ち」をしたことで気づいたことがありまして、それは「ゲームに取りさらわれているとき、生活の中で他のことにまわすべき脳の容量がゲームに取られている」ということです。
まぁこれは私が過度にゲームに「取りさらわれやすい」性質だからなのかもしれませんが、やることが与えられるとその事ばかり考えてしまって他のこと(例えば家の事、バレエの事)を考えるリソースがなくなるわけです。
これってハイデッガーのいう、退屈の第一形態、つまり仕事に追われている状態とほとんど同じです。
別に仕事人間を否定するわけではないですが、私はそういうあり方がしたいわけではないなぁと。
だから私はゲームがとても好きですが、「取りさらわれすぎないように」注意しながら付き合っているのだなと、今回本を読んで思いました。
でも逆に、「取りさらわれないように」気をつけながらゲームをしていると、当然ながら「取りさらわれない」ことでゲームをしていても退屈を感じてしまうこともあり、とても複雑です。
今は「取りさらわれて良い期間」は思う存分取りさらわれて、「だめな期間」は一切やらない、という極端な付き合い方をしていますが、ゲームの適切な楽しみ方はまだまだ模索中です。

退屈とPERFECT DAYS

映画「PERFECT DAYS」の主人公は、トイレ掃除で生計を立てながら、同じような日々を繰り返して生活していて、それだけ聞くとひどく退屈そうな毎日に思えますが、なぜか目が離せない。
映画としても前半は本当にそういった毎日が描写されるのですが、なぜか観るのを止めないんですよね。全然退屈じゃない。
私はその理由を「主人公が日々を味わっている」からだと感じました(加えて、演出や演技などによってそれが見る側にありありと伝わってくるから、でもあります)。
見ていて一番驚いたのが、主人公が仕事終わりに銭湯に行くシーンで、私も銭湯に行きたくなったことです。
私は温泉はともかく、銭湯に普段いきたいなんて全く思わないし、できれば家の風呂で一人でゆっくりしたいと思うタイプなのですが、それにもかかわらず「あ、銭湯いいな」と思わされたことにとてもびっくりしました。
たぶんその理由は、主人公が、仕事の後の銭湯を心から気持ちいいと感じていることがひしひしと伝わってきたからなんですよね。
その他にも、育てている植物のお世話や読書、人とのほんの些細なコミュニケーションはもちろん、布団を畳んだり物を置いたりする行為にすら、心配りがあるというか、味があるというか。

確かに、「退屈」かつ「暇がある」状態なのであれば、きちんと丁寧に布団を畳めばいいわけなのですが、私はそれをしたがらないんですよね。なぜなのか。
多分ふだんの生活を「味わう」心が抜け落ちているのかなと思うんですよね。
「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」と本の中でもラッセルの言が書かれていますが、
おそらく生活の様々なことを楽しむことにもある種の能力が必要なのでしょう。
でもこの映画がさらに凄いなと思うのは、この映画を思い出すことで、その能力を訓練することができることです。
例えば銭湯に行ったとき、あの気持ちよさそうな光景を思い出せば、自分もそれを追体験できるわけです。
これは「消費社会」の「他者に与えられた記号の消費」に近いのかもしれませんが、でもその気持ちを追体験できれば、それは単なる記号ではなく本質になっていくのではないかなぁと。そうやって人は「自分にとって贅沢な生活」を見つけていけるんじゃないかなと、そう思ったのです。

とりあえずの結論

退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ―これがハイデッガーの退屈論の結論である

これは暇と退屈の倫理学の中盤?あたりに出てくる記載で、このあと筆者は「決断」に頼るのは良くない、なぜなら退屈の第一形式と繋がってしまうからだ、と論を展開していると認識していますが、
決断があながち全て第一形式につながるとも限らないような気が私はしています。
むしろ「決断できないような状態に陥ること」が第一形式であって、それは決断するかしないかには関係ない気がするし、決断の結果ではなく流されてそうなるケースも多い気がします。
私はやはり「決断」は大切だと思います。それはなにかを「楽しもう」もしくは「楽しめる何かを見つけるためにコストを払おう」という決断です。
そして同じくらい大事なのが「楽しむ能力を鍛えること」。

実は今回、「暇と退屈の倫理学」を読むのは2回目だったのですが(1回目は離婚直前、てんやわんやしている時に読んで、本もどこかへ行ってしまった)、なんとなく「退屈」を感じることが最近増えて、読み直そうと思って手に取ったら、タイムリーに見た映画と繋がるものを感じて、こんなこともあるんだなと思いました。
当時もあまりにこの本の論点が私の興味にドンピシャすぎて驚いたのですが、今回もやっぱり自分の悩みに向き合うのにとても役立ったなぁと感じます。
こういうふうに自分の考えについて考えたり言葉にするのも私にとっては「取りさらわれやすい」ことの1つなんだなと改めて思ったので、また退屈に悩まされたらこの本を手に取ろうかなと思います。

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