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働きもので芯の強い、あなたたちの記憶

ここのところ、noteを更新できなかった。

いまもなにを書きたいのかうまくまとめられないのだけれど、このままだとずっと書かなくなる気がするので、無理して書いてみたいと思う。

***

10月のおわりに、父方の祖母が亡くなった。

92歳で、老衰ともいえる死因で、大往生といえばそうなのだろう。

両親が教師の共働きで、時代的にも時短や定時上がりみたいな働きかたができなかった我が家のばんごはんは、わたしが覚えている限りずっと、徒歩5分の場所に住む祖母が作ったコロッケや、おでんや、カレーや、てんぷらだった。

料理が得意なひとだった。
にこやかで、気丈で、きっぱりとしたひとだった。
若い頃に離婚して、わたしの父を含む男3兄弟をひとりで育てた。昔は、地元でいちばんの繁華街のなかに住んでいたと聞いた。

おとうととわたしが保育園に通っていたころには、祖母はわたしたちの保育園の給食室で働いていた。
仕事がおわると、わたしたち姉弟を大人用の三輪自転車のおおきな荷台に入れて、こいで、保育園から1キロくらいの距離にある祖母宅まで連れて帰って、焼きおにぎりを焼いてくれた。

わたしたち姉弟を乗せた三輪自転車をこぐうしろ姿と、
わたしたち家族のためのばんごはんを作ってくれているうしろ姿。

深く話しこんだことは、覚えている限りはなくて、わたしが覚えている祖母の姿は、うしろ姿が多い。

小学校5年生のときにわたしが一週間入院したときはお守りをもらってきてくれて、大学を卒業してから3年間アメリカにいってほとんど音信不通になったときには近くの神社で願掛けをしてくれていたと聞いた。

それ以外にわたしは、祖母について、ほとんどなにも知らなかったのだった。

***

祖母の葬儀で、喪主をつとめた叔父が、

「働きもので、芯の強いひとだった。」

と言っていた。
控室では、最期まで同居していた叔父や叔母やいとこたちや、徒歩5分の場所に住んでいたわたしの両親や弟や、ほとんど会ったことのない親戚たちがあつまって、お茶を飲んで、おかしを食べて、思い出話をした。

あたたかで、なごやかな時間だった。

叔父には叔父の、父には父の、わたしにはわたしのなかに、祖母がいて、それぞれいて、最後のときにあつまって、祖母の残したなにかを思いながら思い思いにおしゃべりをした。

わたしは、祖母についてほとんどなにも知らなかったけれど、わたしのなかにはちゃんと祖母がいた。わたしだけのおばあちゃんがいた。

***

葬儀がおわってからしばらくのあいだ、ふしぎと、すぐそばに祖母がいるような気がしていた。

そのときちょうど、わたしは、仕事で、生まれ育った土地がもつ気候や立地といった環境と、そこで起こったこと・起こらなかったこととなどの歴史と、そこから生まれた文化や産業などの関りについて調べていた。
調べた内容をコンテンツにして、スタディツアーを企画することになっていた。わたしは専門家ではないけれど、企画者側にいたしその企画のメインの担当者だったので、しばらく前から、たくさんの論文や本や郷土資料を読んでいた。
だから、知識として、ものごとを語る準備はできていた。

けれど、祖母が亡くなって、わたしがほとんどなにも知らないまま、わたしのいのちの起源ともいえるひとのすごした日々が、土地の記憶が、ふっと溶けて見えなくなってしまったのを感じて(あくまでも、わたしからは見えなくなってしまった)、わたしが語ろうとしていたものごとが、とても表面的で形式的なもののように感じた。

国の、土地の歴史とは、そこで生きたあまたのひとびとの、数えきれない日々のつみかさねのことであり、それは過去であり、現在であり、未来なんじゃないだろうか。

それ以来、そういったものごとの重なり、暮らしと営みの相対性理論のようなことを、どうしたらことばにして残しておけるだろうかと考えている。


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