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夜空のしたでインスタントラーメン

最近、5歳の長男とわたしのひそかなたのしみは、2歳の次男がねむりについたあと、そわそわとお湯をわかして、サッポロ一番のしょうゆをゆでて、マグカップにはんぶんこにして、庭のベンチでたべること。

我が家は数軒つらなる戸建ての通りのなかの一軒で、両隣や裏には民家があるのだけれど、自宅のまえ、細い通りを挟んだ向かい側は畑で、その向こうは林で、さらにその向こうはずっとずっと畑。街灯は、ほとんどない。

だから、夜はちゃんとくらい。

くらくて、すっとつめたい空気が満ちていて、お隣のおうちのボイラーの音だとか、近所のどこかのおうちのテレビの音が漏れ聞こえるちいさな音だとか、そういう誰かの生活の気配がある夜に、夜空のしたで、ふうふうしながらインスタントラーメンを食べて、はあっと白い息を吐いてあそぶ。

長男は、はじめてふたりでこのたのしみを発見した夜、
「こういうの、またしようね。とってもいい夜だね。」
と、ひそひそと言い、にこにことうれしそうだった。

そういうのが、とてもたのしい。

***

ところで、わたしはもう結構いい歳なのに、いまだに自分のことや、人生のことがよくわからない。

なにがしたいのか、なにをしたくないのか、誰といたいのか、なにかを残したいのか、残すとか成すとかそんなのどうだっていいのか。

たとえば、ある仕事仲間は、「人生は壮大なひまつぶし」だと言う。「ひまつぶし」だと言いつつ、彼は、この世界にたいして自分ができること、つくりだせるものごとについて、ずっと考え続けている。
考え続けながら、家族がいる街から遠く離れた、ある大きくもちいさくもない街で、コミュニティスペース・レジデンス・ホステル・ギャラリーを運営しながら、若いひとたちが挑戦するのをいろいろな立場で応援している。

方法や動機は違えど、世界にたいしておなじような向き合いかたで生きている知人がなんにんかいる。彼らは、「地域の持続可能性をたかめたい」と言ったり、「日本人の幸福度をたかめたい」と言ったり、「地方政治のありかたを変えたい」と言ったりする。
わたしは、みんなすごいなあ、と思う。そして、そのうち何人かのたたずまいやものの考えかたを、特にかっこいいなあ、と思う。

そうして、ちかくにいて、すごいなあと思うから、尊敬しているから、その素敵なところをちょっと模倣したくなる。でもできない。

できないことに、最初はすこし落ち込んで、できない理由をかんがえた。

それでなんとなくわかってきたのは、わたしは世界とか社会とかいうおおきな単位において、「ここをこうかえたら、こういうものごとを生み出したら、ここがこうかわるのじゃないか」というものの考えかたができない。

そこには、わたしの脳みそが(おそらく)全体を俯瞰して戦略や計画を立てるということに長けていないという根本的な理由のほかに、これまでのわたしが誰かの役に立つために必要なものごと(製品でも、サービスでも、制度でも)をつくりだすという経験をしてきていないからか、かんじんなところで自己効力感がひくいという理由があるのだと感じる。

***

わたしになにができるというわけでもないのだけれど、師走だからか、年度末が近づいてきたからか、さいきん仕事が忙しくなってきた。

わたしは仕事の内容がそのまま趣味みたいなときもあるので、苦ではないし、働けば稼げるし、なにも不満はないのだけれど、やっぱりかんじんなところでの自己効力感はひくいままだ。

脳みその得意不得意はなかなか変えられないけれど、自己効力感をたかめる手立てはあるのではないか。さいきん、そう思うのだ。

それはきっと、たくさんたくさんトライアンドエラーすること。
かんがえて、試してみて失敗して、またかんがえて、すこし手ごたえを感じる。そんなことを繰り返していくこと。

たくさんたくさんトライアンドエラーするためには、やろうとしているものごとが、自分ができることであり、自分がやりたいこと・熱中できることでもあり、そして、自分がすべきだと思えること。
トライアンドエラーはしんどいし、途中で嫌になってしまうこともあるかも。でも、その3つの条件がそろっていれば大丈夫な気がする。

あとは、なによりもまず、たいせつなものを見失わないこと。

わたしの場合、息子と、夜空のしたでインスタントラーメンをたべるだけでこんなにたのしくてしあわせなのだから、そういう時間、つまり生活のたくさんのちいさな何気ない場面で、親子でとなりに座っておなじ時間を共有して、それぞれが自分なりのしあわせをそこに見出して、お互いに勝手に癒しあっている。
そんな時間が毎日生活しているだけで無限に生み出されたら、わたしは最高にハッピーだ。内容はひとによってさまざまでも、そういう幸福感が、自己効力感のベースにあるんじゃないだろうか。

***

そう思うと、やっぱりわたしは、今暮らしているちいさな街でできること、誰かに喜んでもらえることをちゃんとサービスにするべきなんだろうな、と思う。
そうして、経験やできることやアイデアや仲間をどんどん増やしていって、そういう暮らしや営みのそばに家族がいる状態をつくるのだ。

そういう身体感覚や意識のさきに、いまはまだ見えていない世界がひろがっているのかもしれない(し、ひろがっていないかもしれない)。

そういうことを、まずやろうと思う。

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