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よんだ「三味線語り」本條秀太郎 著(2006 )

本條秀太郎さんは、三味線の演奏者であり、作曲者。
本書の構成は、二部構成。前半は、秀太郎さんの三味線音楽への念い・姿勢が語られ、後半、六人の方との対談。江戸にお詳しい「田中優子さん」とも。途中、「好きな端唄(はうた)」のコラムなど。

まず、前半から。

私が求めている「民謡」は現代の商業ベースにのせられたものではなく、創造し発展させる日本の音楽です。生活の中から生まれた本来の”うた”とは、自然と共生し、この世に生かされている実感の中で、己を鼓舞し、他社と協調しながらうたい、踊るものでした。

P. 11

民謡の本来の姿を求め、
民謡がむかしは「俚謡(りよう)」と言われていたので、
「俚奏楽(りそうがく)」と名付け、
民謡の再構築のため活動されてきたそうです。

三味線の半音は洋楽の半音より狭く取ります。このことによってしっとりとした趣きを感じ取ることができるのです。

P. 37

多湿の気候風土から、しっとりした音楽が現れるのでしょうか。
日本の音楽だけでなく、ワールド・ミュージックも、風土と音楽の関係からみていったら面白いですね。

三味線は単音でテーンと弾いただけで世界が浮かび上がってくるのだと思います。これは「さわり」の効能で増幅され、「音の減衰」の中に消えていくものへの念いや”滅び”の美を見いだすのでしょう。この「音の減衰」こそが日本音楽にとって失ってはならない「間」なのです。

P. 37

「さわり」を簡単に言うと、弦の共鳴音を出すメカニズム。
楽器の伝搬として、
 三弦(中国) ⇒ 三線(沖縄・奄美) ⇒ 三味線(日本本土)
というルートになりますが、三味線では、琵琶の「さわり」をとりいれるため、工夫がほどこされているようです。

唄と三味線の関係は「不離不即」つかず離れずがよいとされています。三味線唄の多くは、三味線と唄とをずらしてうたいます。

P. 38

独りで三味線をひきながら唄をうたうのは、たいへんそうですね。
三味線弾いて、ずらしてうたう。
北上して、津軽三味線は、今は演奏のみがメインのイメージ。
むかしは、演奏者と唄い手が別だったかと思います。

明治維新と第二次世界大戦で日本人は伝統文化や日本人民族の誇りをすっかり失い、欧米に対して、あこがれとコンプレックスを刷り込まれたような気がします。

P. 52

頁がとびましたので、突然の話にはなりますが、これは大きく同意。
明治政府は、江戸文化を全否定。
第二次世界大戦後の日本は、アメリカの表面的なところを注入。
第三段階目は、いつで、どうなってしまう危険性があるのか。

日本の芸能は自然(神)への畏敬の念と感謝から捧げられたものであり、自然(神)との「歌あそび」として生まれ、表現されてきたものだと考えます。

P. 60


二部構成の後半。国立劇場芸能部部長「織田紘二さん」との対談から。

本條 三味線はもともと、沖縄の三線という弦楽器が十六世紀に伝わってできたものといわれていますが、そこで音階の変化が起こっているんです。三線の構造を変えて、半音下がった音を基調とするように改良された。これをわたしは”陰化”と呼んでいるのですが、そこから現在われわれが日本の音と感じるものが始まっています。

P. 71

織田 われわれが文明を推し進める中で失った最も大きなものは音であると思います。「生活の中の生きた音」は、いまや根絶やしになってしまった。

P. 73

つづいて、田中優子さんとの対談。

田中 三味線は、いちど洗練されて人工的になったものをもういちど自然の側に戻したからこそ日本人が使いやすい楽器になったのではないかという気がします。

P. 81

つづいて花人の「川瀬敏郎さん」。

川瀬 われわれは芸術ということだけでは満足できない民族だと思いますよ。個人の完結だけでは終わりきれないある何かを抱えているからこそ、神につながる「芸能」という分野を伝統としてきたんだと思います。

P. 99


この本もご多分に漏れず、「積んどく」で放置していた本の中の一冊。二年半ほど寝かせておりました。読めたのは「note」 のおかげでもあり、読むことが出来たかと。感謝 ♪
本のおまけでCDもついておりますが、別にCDも注文しました。
俚奏楽かぁ、いいですねぇ ♬ 「日本の音」を意識していきますよ。

松岡正剛の千夜千冊 1691夜(意表篇)

おしまい