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#音楽
First Deep Forest video by Don Letts(1992)
記憶の中で、懐かしさを鳴らす音の方へ進んでいった。 靄がかっており、なかなか近づけない。 音の形のひとつを引き寄せてみたら、30年前のものが出てきた。 もうひとつ、靄がかっているものがあるが、それは取り出せない。 ディープ・フォレストと(イメージとして)一緒にしているもので、 インディアン系風の音楽が、記憶の澱にあるが。 naka (転載はじめ) ディープ・フォレストの日本盤CDライナー・ノーツを 多数手がけてきた音楽評論家の大伴良則は、 アルバム『Comparsa』の解説の中で、 彼らの音楽について示唆に富んだ見解を書き残している。以下に引用しよう。 「(略) 生き生きとしたRAW(ロウ)な音楽であるアフロ・キューバンへの傾倒を 素直に表現したいというネイティブな気持ちがこめられている反面、 その喜びへの賛歌の陰に、哀しみと困惑に満ちた世情があることを、 ディープ・フォレストは知っているのである。 (略) 欧米人の彷徨とかげりゆく世界への、あるいは失われゆくものへの念が こめられているような気がするのだ。 ヨーロッパに限らず、ここ日本を含む東洋などでもそうだが、 西洋合理主義と、産業革命以降の科学優先が揺らぐこの20世紀末… その大きな動揺がすべて素直にこめられた音楽が、 ディープ・フォレストの音楽であろうと思う」 (転載おわり) https://rollingstonejapan.com/articles/detail/40649
「Alina」Arvo part(ECM 1999)
https://www.youtube.com/watch?v=7aqWJmCD68w https://tower.jp/article/feature_item/2022/12/09/0111 (転載はじめ) 1935年エストニア生まれの作曲家。ルネサンス音楽、バッハ以前の古楽を研究しティンティナブリ様式と名付けた作曲技法を確立。 そんなペルトの作品の中で最も音数が少なく静かな作品を本作に収録している。 “鏡の中の鏡”を3曲(ピアノとヴァイオリンバージョンを2曲、 ピアノとチェロバージョンを1曲) “アリーナのために”(クロード・ミレール監督の『リリィ』で使用されている)を2曲交互に配置。つまり2曲のみで構成されている。 ただ上昇下降していくヴァイオリンの旋律、 ピアノの三和音から生まれる極限まで削ぎ落とされた音の世界。 (転載おわり) こんなにも静かな音楽があるんですね。アンビエント本でジャケットを見て、 聴いてみましたが、アンビエントとは別の領域。 大切なものを優しく包んでいるイメージ。 有り難く崇高な静かな音色。 誰かに贈りたくなる。聴いて癒やしてほしい。涙が出てくる。 naka
「Thursday Afternoon」Brian Eno(1985)
https://www.youtube.com/watch?v=pZ6V8pH4HPY http://kisonoabaraya.qcweb.jp/thursday.htm (転載はじめ) かすかに持続する低音のノイズ(ドローン)の上に、 シンセサイザーの澄んだ音が、まばらな星のように、 はじけて消えるシャボン玉のように、きらめき、たゆたう60分。 真剣に聴きいるための音楽ではなく、壁紙のような、 部屋に漂う香りのような、バックグラウンドとして制作された音楽。 目を閉じると、ほの暗い海の底で静かにまどろむ深海魚になった気分。 あわただしい日常から解放され、 ゆっくりほどけていく音の絵巻に身体をまかせる心地良さ。 自分という存在がだんだん小さくなってゆき、 あと少しで悟りが開けるんじゃないかと思いながら 30年ほど聴き続けています。 いまだ悟りは開けず、世俗の塵にまみれるばかりですが、 心の安らぎが欲しい時には、ふとこのCDをかけたくなります。 (転載おわり) 音楽は、聴く対象であり、「聴かれる音楽」と「音楽を聴く自分」には 境界線があり、そのラインは明瞭。 しかし、音楽を弱めにし、音楽を聴きとろうとしなければ、 弱めの音楽も、強い意識を持たない自分も、 その場に存在する「なにか」でしかない。 naka ♬ --------------------------------------------------------------------------------- 養老さん言われる 「脳」が物で、「心」が機能とすれば、「音楽」とは機能となるか。 存在ではなく。。。