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「教え→教わり」の「年の功」的な側面

 野球でも他のスポーツでも、「名選手に名監督なし」とはよく言われる言葉です。

 それをもっとわかりやすい言葉に落として言い替えると、「天才的な人は、普通の人に、仕事や勉強の仕方を教えられない。」となるんでしょうね。

 選手としては、必ずしも天才的ではなかったが、いろいろと苦労をし、泥臭さの中に、自分の道を見出したような人の方が、監督として、各選手が工夫する道筋をうまく伝えられるのかもしれませんね。

 ときどき、テレビやラジオなどで、天才的な語り口で、一般人にはよくわからない話を滔滔とうとうと語る人がいますが、もしかしたらと思うのですが、自分の話が相手に伝わっていないのではないかという想像力がないのではないかと疑うことがあります。

 心理学で、「メタ認知」という言葉がありますが、これは「自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること」を意味します。

 わかりやすくと言うと、自分を第三者視点で、自分の斜め上あたりから、客観的に見て、今の自分は○○だな、と判断したうえで、自らを律していく能力のことです。

 もしかして、天才的な人で、わかりにくく話す人って、この「メタ認知」の能力が欠けているんじゃないでしょうか。

 天才的な人、すなわち、名選手が、監督になって、この「メタ認知」能力が欠けるあまり、「こう伝えたら、わかりにくいから、別のやり方で伝えるか」なんてことの配慮が及ばないのではないかな、逆に、選手時代に苦労した結果、監督になった人の方が、「こいつも苦しんでいるんだな、だったら、こういう風に教えるか」なんて配慮が及ぶんじゃないかなと、強く推測します。

 で、ここまでは、みなさんも一定、理解いただけると思うのですが、自分が仕事なり、勉強なりを教える立場になったら、どうするかなと、今さらながらに感じるのですね。

 自分は、給料をいただく以上、ある意味、プロフェッショナルなわけですが、ただ、プロスポーツのような輝かしい舞台で活躍するような代物ではありません。

 もっともっとちんまりした、さまざまな欠点・不足点を抱えた代物なんです。

 一方で、長年、サラリーマン社会を生き抜いてきた結果、特定分野ではあるものの、一定の知識・スキルは保有しているんですね。

 こういう自己分析を踏まえると、「欠点・不足点は教えてもらわないとどうしようもない」し、その代わり、「自分の方が得意な分野では、周りへの助力を買って出よう」と考えるのです。

 終身雇用が崩れかけている現在、若い人は、私のようなおじさんに対して、単なる年上というだけでもって、重きを置いてくれるとは考えにくいのですね。そう「極めて」です。

 「亀の甲より、年の功」と、昔は言いましたが、年の功と呼ぶべき、何らかの知恵を、現在の言葉にして、相手(周囲)にわかりやすい形で、伝える必要があると思っています。

 そして、そのうえで、相手である周囲からも、自分の欠点・不足点を補うような情報を得るようにしないと、これは仕方がないのではないか、なぜならば、全方位で、理解が及ぶような単純な仕事や勉強は、もはや存在しないからなんです。

 つまり、「教え・教わり」の両方が必要であることから、自分一人で完結する仕事や勉強はないと考えた方がいいし、周囲の助力も上手に得た方がいいのです。

 ただし、「教え」が先で、「教わり」が後の方が常識的にバランスがいいと思います。

 名選手でもなかったし、名監督にもなれないですが、「教え→教わり」の微妙なバランスをある種の「年の功」として、今後の仕事や勉強の面に活かして行こうと思っています。

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