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プリパラ2期は「プリパラ神話」を破壊する物語なのか〜紫京院ひびきを題材に考える〜

今日は真剣にプリティーシリーズを語る「漢」の目をしています。
藤吉なかのと申します。

野暮な前置きは省いて、すぐに本題に入ろうと思います。
プリティーリズム・プリパラ・プリチャン、そしてプリマジ…
丁寧に時間をかけて全シリーズを見終え、燃え尽きた僕は見てきたシリーズに想いを馳せ、ふと気づきました。

「プリパラ 2nd season」って、シリーズ屈指の問題作なのではないだろうか…?


序〜中盤こそプリパラにおいての謎ミルキィ枠、森脇監督の肝入りことセレブリティー4の八面六臂の大活躍(一瞬)により、女児アニメの体裁をどうにか保っていたプリパラ2期。

ですが物語が進んでいけば行くほどにフューチャーされていったのは、
ひびき様の「持つ者のみが舞台で輝き、持たない者は分をわきまえろ!」などの強烈なセリフや

『らぁら・みれぃ達の「301%の努力」がセレパラ歌劇団の才能の前では全く通じない』
といった残酷な展開。
これらはまさに劇中でも幾度となく言及された

「努力では才能に勝てないのか」

という非常に重いテーマを象徴するものと言えるでしょう。

このシリアスなテーマに正面から向き合い、らぁらの勝利・ひびきの改心によって美しい大団円を迎えた…とされるプリパラ2期はファンの中でも未だに語られる名作。
実際、僕もめちゃめちゃ感動しました。

ですがこの大団円を見届けた私は、「良い作品を見た…」という満足感と同時にどこか心にちょっとしたもやもやを感じたのです。
そのもやもやの正体はすぐに分かりました。

普通の女の子だった自分を変えてくれたプリパラを愛し、誰もがアイドルになれる夢の場所であるプリパラを必死に守ったらぁら。

自らの理想郷、敷居が高く美しいセレパラを目指してその圧倒的なパフォーマンスとカリスマ性でプリパラに革命を起こさんとしたひびき。

この2人の今までの紡いできたお話と過去、そしてそれぞれに魅力あるパフォーマンス…
これらを思い出した時にふと思ったのです。

「プリパラ2期は残酷なまでの"才能讃歌"では?」
「シリーズ全体に流れるプリパラ神話を2期が破壊しているのでは?」


努力アイドルの敵役として、天才アイドル代表のような位置付けであった紫京院ひびき。
彼女を努力アイドル代表・真中らぁらが倒すことでみんながアイドルになれる「プリパラ」を守る。

…2期の終わり方は平面的に受け取ればこういったものです。

僕はファン歴こそ2年足らず、プリパラをリアタイすらしていない凡夫とはいえ…
多面的な魅力を持つプリティーシリーズのことも、ひたむきならぁらのことも、全てに真摯なひびきさんのことも、ひとりのキャラクターとして・アイドルとして最大限に尊敬しています。
だからこそ真剣に、不当に貶したり迂闊に誇大な解釈をする意図を取り払って。この考えについて論じたいのです。


「紫京院ひびき」は単純に〔天才アイドル代表〕と定義づけられて良いキャラクターなのか?

そして「み~んなトモダチ!み~んなアイドル!」に代表される、いわばプリパラ神話とでも言うべき優しく朗らかな世界観。

この神話は他でも無いプリパラ2期の存在によって瓦解しているのではないか?と。

ここからなぜ僕がそう思ったのか、順を追って説明したいと思います。


・僕はひびきさんをなぜ【天才アイドル】ではないと思ったか


「天才」とは。
インターネットの叡智によると、〈生まれつき備わっている、並み外れてすぐれた才能。また、そういう才能をもった人。〉とあります。

私はこの「天才」という言葉を、何故「A」という結果を得られたのか、うまく言語化・理論化できずともそのカテゴリのトップに立てるほどの資質を生まれながら持つ人。もしくはその才能自体を形容する言葉と解釈します。
私を含む多くの人が行わなければならない、
「結果を得るために理論を組み立て、筋道立てて地道に積み上げる行為や過程」を丸々必要としない存在のことですね。
そんな存在がいたら、まさしく天才と言えるのではないでしょうか。

プリティーシリーズでいえば、プリチャンの「める」がこの天才像に近いように感じます。
もちろん練習をする描写はしっかりありますが、歌やダンスだけでなく大百科無くしてキテレツばりの実力を発揮する発明力や、あからさまにNASAっぽい組織で認められるレベルの天文学までを超短時間でチョチョイとこなしてしまう彼女の才能はまさに「天才」と呼ぶにふさわしいものです。

「紫京院ひびき」という人間の資質およびセンスについては、プリパラを見たみなさん全員が知るところです。

スポーツ・芸術すべて万能、絵本から出てきた王子様のような品のある言動、あととにかく顔が良い。
まさに完璧超人!負け知らず!と思われがちひびきさんですが、冷静に見返してみると苦戦を強いられるシーンも意外と多いことがわかります。

「ぷり」や「ダヴィンチ〜」と言った奇抜な語尾に強烈なトラウマを持つという(ことプリパラにおいて致命的な)弱点を筆頭に、55話で自らの思うように動いてくれない「ふわり」に対して苛立ちを見せたり、76話ではグライダー捌きと運動能力で「みかん」に遅れを取ったり…実は枚挙にいとまがない!

この時点でひびきさんが「める」のような、あらゆる事がパッとできてしまう天才タイプとは確実に一線を画していることがお分かりになると思います。

ですが「ふわり」はそもそもが異常なほどの純真さ・素直さを持つ少女でしたし、「みかん」はこと運動に関しては作中でもトップクラスの実力を持つエリート!
これら一分野に特化したアイドルに対して後塵を配しただけのエピソードのみからひびきさんが【天才アイドル】ではないという結論を導くことは少し無理やりすぎると感じる方もいるかもしれません。

僕が「ひびきさんは本当は【天才アイドル】ではないかもしれない」と確信を持ったシーンがこちらです。

第77話「対決!ウィンターグランプリ!」より
「通し稽古はウィンドリの前日に1回すれば十分。それよりも、一流の芸術に触れてインスピレーションを得ること…これこそが天才にふさわしい、新しいセレパラへの1歩だ。」

「ウィンドリ本番までに、パラデミー賞のこれまでの受賞作を全て見てもらう。さらにバレエ・美術・オペラ・工芸品など…」

ウィンドリの決戦に備え、泥臭くハードな特訓に全力で取り組むらぁら達。

それを尻目にひびきさんはシオン達と共に高級ランチに舌鼓、そして続けざまに映画館で名画の鑑賞…と一見すると「らぁら達との対決になど練習は不要」と鷹を括っているかにも見える行動をとります。

ですが僕が引用したシーンでひびきさんは、「これ(=一流の芸術に触れてインスピレーションを得ること)こそが天才にふさわしい、セレパラへの1歩」と言っています。

つまりはこの「優雅な息抜き」こそがチームを来るべき理想郷・セレパラの不動のセンターへ押し上げる。
この一流の芸術に触れる時間こそが、精鋭達の実力を格段に高めてくれる最良の練習だ
、と強い確信を持って発言しているのです。
これには完全にやられました。

話が少し変わりますが…
イチローという野球選手をご存知でしょうか?「日本野球史上最高傑作」と称され、メジャーリーグでも圧倒的な活躍と成績を残した生ける伝説。
まさにイチロー選手は「天才」と呼ばれるにふさわしい、偉大な選手です。
しかし本人は自分を天才だと思ったことは一度もない、と言いのけます。
記者になぜか?と聞かれたイチロー選手はこう答えました。

「僕は天才ではありません。なぜかというと自分が、どうしてヒットを打てるかを説明できるからです。」

「自分の気の遠くなるほどの努力と工夫の積み重ねから生まれた結果を、天才なんていうチープな言葉で片付けるんじゃない」という強い誇りが感じられる、シンプルながら素晴らしい言葉だと感じます。
僕はこの言葉の「天才」観はまさに紫京院ひびきという人間にピッタリ当てはまると感じました。

普段より「みんなの理想の王子様」を演じ続ける紫京院ひびき。その計算と演技のクオリティはもはや彼女自身が意識せずとも十分に溢れ出るほど、正確で完璧なものです。

その計算し尽くされた立ち居振る舞いから推測するに、ひびきさんはあの圧倒的な『純・アモーレ・愛』のライブパフォーマンスの足運びから指使い。
視線移動の魅惑性からひとつひとつの動きの仔細な力の加減まで…

全ての狙いとそれに至るまでの論理を順序立てて説明することができるスタァなのだと確信できます。

(もちろん彼女はそんなマジックの種明かしのような、観客の夢を壊しかねない真似はしないでしょうが…)

そうした努力によって得た論理があればこそ、ひびきさんはセレパラ歌劇団のメンバーへ向けて普通とはかけ離れた—それでいて確実に彼女らを成長させる練習を指示できたのです。
もし彼女が掛け値なしの天才で、良い芸術を漫然と浴びるだけで役者としてもプリパラのアイドルとしてもすぐにトップを取れるような器なのであれば、間違いなくセレパラ歌劇団のあの圧倒的な成長を促す練習メニューを発想する基礎となる経験も無いはずですからね。

ここからは完全に事実に基づいた推測の域を出ませんが、ひびきさん今の彼女らに必要なのは「既に持っているセンスをどう使えば美しいカタチになるのか」と考えたのではないでしょうか。

ならばいっそのこと「美しさの基本のみ」を叩き込み、ぶっつけ本番に近い状況でそれを表現させたほうが今の彼女らのスタァとしての成長に繋がる。それがセレパラへの最善策だ、と。

そう考えたからこそ、ウィンドリ本番前の準備期間をまるまる芸術の観賞に充てたのでしょう。きっとシオンやそふぃ、あろま達の意見を尊重して順当に(あえて悪く言えば工夫のない)練習を積んだだけではあの「ホワット・ア・ワンダプリ・ワールド‼︎」の完成度はなかったはずです。

映画のパロディが絶品です

まさに既に持ったセンスを磨くための適切な努力を知り、それを人に伝えることができるまでに苦労を積み重ねた「努力人」にしか成しえないウルトラCだと言えます。

紫京院ひびきというアイドルには、人を惹きつける圧倒的なスター性やダンス・歌唱力、優雅な立ち居振る舞いから滲み出る高貴な魅力があります。

それは時に「天才」「天賦の才」と表現されます。もちろん、彼女には溢れんばかりの才能がある事は紛れもない事実です。

では彼女の持つ魅力は全て、この節の冒頭であげた「天才」の意味である………
〈生まれつき備わっている、並み外れてすぐれた才能。〉に当てはまるでしょうか?


紫京院ひびきが私たちをこれだけ惹きつけるその魅力の全ては、全て彼女が“生まれつき”持っていたものなのでしょうか?


彼女がセレパラ歌劇団を限られた時間の中であれほどのパフォーマンスができるアイドルグループに成長させる…
生まれ持った才能のみでのし上がってきた、“努力を知らない天才”にそんなことができるでしょうか?

僕は絶対にできないと思います。
だからこそ僕は紫京院ひびきは【天才アイドル】という一言で片付けられるアイドルではない、と確信を持って言えるのです。

・いかにしてプリパラ2期は「プリパラ神話」を破壊したか

「み〜んなトモダチ!み〜んなアイドル!」はまさにプリパラを象徴するフレーズですよね。

望めば誰もがステージに立ち、歌って踊って輝くことができる!そんなプリパラの優しさの哲学が詰まったキャッチフレーズです。マジでいいフレーズ。

一方でプリパラの先輩シリーズである「プリティーリズム」シリーズは選ばれし少女・少年たちのみが舞台にプリズムスタァとして上がることを許された、いわばリアル志向。

そもそもの才能や見出されるための縁が舞台に上がる前提としてあり、その上で努力や挑戦の美しさを描いた傑作と言えます。
(私事ですが、舞台関係の活動をしていた期間が長かったのでプリリズもめちゃめちゃ刺さりました)

そのリアルさ・シリアスさが織りなすハードな魅力とは打って変わって、「プリパラ」の全体的な印象はまさに夢の世界。
(プリパラを語る際によく言及される「語尾」ですが、物語全体のリアリティラインを下げることでリアルなことをやったとしても「この作品はファンタジーなんだよ」と視聴者に分かってもらえる、作劇上で重要なギミックだと思っています。この辺りのバランス感覚が本当に絶品。)

どんな子でも、「やりたい」という気持ちさえあればいつだってアイドルとして輝ける!
そこに容姿はもはや関係なく、重要視されるのは、誰もが本気になれば手に入れることができそうな「意志」と「努力」という限りなく平等な称号です。

つまり「プリパラ」は先輩であるプリティーリズムシリーズとは趣向が異なり、努力の素晴らしさや平等・寛容性といった普遍的な私たちの理想を、「それらが確かに"ある"世界」を創作することで描こうという意図が強くあるシリーズと言えるのではないでしょうか。

先述した通り、このプリパラ2期はひびきさんをらぁらが打ち破ることで一応の終結を見ます。今まで見てきたひびきさんの非天才性を理解すると、この結末は果たしてプリパラ神話に当てはまる構造なのでしょうか?

決して私はらぁらが天才アイドルだと言いたいわけではありません。彼女も彼女なりの努力をして必死にひびきさんに挑み、結果としてひびきさんに勝利した。
しかしプリパラという「芸事」の世界で…7歳からモデルとして並々ならぬ研鑽を積んできた努力のエリートであるひびきさんに、短い期間内に必死の努力をした一般人にすぎないらぁらが勝つことなんてあるのでしょうか?

私はプリティーシリーズが大好きです。
「女児アニメだし、主人公が勝つのは展開の都合でしょ…」などという、作品のジャンルを根拠とした不当な差別はしたくありません。

先述した天才の条件は「何故「A」という結果を得られたのか、うまく言語化・理論化できずともそのカテゴリのトップに立てるほどの資質を生まれながら持つ」というものでした。

繰り返しになりますが、作中の誰よりも努力を続けてきた芸事のエリートであるひびきをらぁらが退ける…
らぁらがつかんだ勝利こそ、天才にふさわしい「理論・言語化を超越した」勝利なんじゃないでしょうか?

これは果たして「努力をより多くした人が必ず報われる、そんな普遍的な私たちの理想を必ず叶える理想の世界」というプリパラ神話に沿った物語なのでしょうか?

偉大な作品に対して結論を簡単に出し、一オタクが分を弁えずにレッテル貼りをすることはとても醜いこと。
私は敢えて「プリパラ2期はプリパラ神話の破壊だ」と安易に結論づけることはせず、問いを投げかける形でこの論説を一段落させたいと思います。

作中でガァルルの生い立ちには「名もなきプリパラで輝けなかったアイドルたちのもやもや」が深く関係すると言及されています。
つまり「み〜んなアイドル」というテーマに関しては、すでに劇中でも疑義が呈されている訳ですね。

プリパラとは「プリパラ神話」を掲げながらも、それを意図的に破壊する…もしかしたらそのような、シリアスなお話の構造なのかもしれません。これもあくまで一オタクの妄言。

とりあえずこの記事をまとめるために結論らしいものを述べるとすれば、プリパラ=「カオスでぶっ飛んでて、みんな幸せな作品」…
『プリパラ』はそういった一面的な理解だけでは全体像が掴みきれない作品ということです。


おわりに


堅苦しい口調でまくしたてたので少しだけ口調を崩しますが…
これに関しては、マジで自分よりも詳しいプリパラオタクのみなさんの意見をお聞きして理解を深めたい!

多分これを読んで「こんなのプリパラをシリアスぶって考察してるだけだ!」と思う方もいらっしゃると思うのですが、少しでも2期のオチに対してもやもやを覚えてしまったな…というオタクのみんなに届くといいなぁと思って文章を書いています。もうこれ「祈り」に近い。

結論・プリパラって解釈の幅が広くてめちゃくちゃ最高〜!!


こんなオタクの文章を最後まで読んでくれた酔狂な方がいらっしゃったとしたら、心から御礼申しあげます。
この記事書くために水面下で言語化を年単位で重ねていたので、最後までこの文章を読んでくれたあなたのおかげで報われます。


(…………でも、構想〇〇年!つって作業期間をウリにして宣伝する映画ってだいたいつまんねーよなぁ……)




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