見出し画像

『それ町』8話に見る「生まれる前へのノスタルジー」

インターネットで嫌われがちな「懐古」や「ノスタルジー」に取り憑かれて幾年(いくとせ)……こんばんは、藤吉なかのです。
アニメ『それ町』8話を軸に、ノスタルジーってすごく良いよねという結論に着地する文章を書きます。以下より本文



「懐古厨」と「インターネット老人会」


「懐古厨」という言葉がインターネットに浸透しきってもう何年になるのでしょうか?常に不特定多数からの銃口が向いている世紀末なインターネットで懐古的な言動をすることは、あまりにリスキー。

実際、現行コンテンツを楽しく追っているのに水を差すような懐古発言に少しモヤモヤした…という経験は全オタク共通のもの。嫌がる側の気持ちが分かる方も多いのではないでしょうか。

しかし一方で「インターネット老人会」といった単語も耳にする機会が増えたのでは。
Vtuberさんの配信などでよく使われている印象がありましたが、もはやTwitterでも共有されて広い層のオタクに浸透した概念となっています。

私はこの概念を、「若いオタクには忌避されがちな内輪ノリ・懐古ネタを、[伝わらないノリ]という自虐的なレイヤーを1枚通すことによって堂々と使用している状態」だと解釈しています。

そもそもこの言葉がここまで広まっていること自体が、「自虐」レイヤーを通さない状態での懐古発言は未だにしづらいという共通認識があることを逆説的に証明しているわけですね。

この言葉の誕生からも、オタクという生き物はノスタルジーが大好きなことが容易に分かりますよね。若いオタクに許されるなら、ノスタルジーという名の心地よい湯船にはいつまででも浸っていたい…

多くのオタクが青春時代に夢中だった作品の話を一生し続けているのも頷けます。まだ感受性がまっさらだった時代の自分へのノスタルジーって、もはやオタクとかでもなく人間の本質的な娯楽なのかもしれません。
若者世代にアジャストし始めた紅白歌合戦の裏で放送されている「年忘れ 日本の名曲」みたいな番組も、そういう人たちに向けたものでしょうから。


これらの概念が取りこぼしているオタクの存在


「懐古厨」「インターネット老人会」という言葉はとてもキャッチーで便利な概念ですが、特定のオタク層を取りこぼしているとも感じます。

それは、「生まれる前へのノスタルジーに浸っている」オタク層。
命としての自分が生まれる前に限らず、オタクとしての自分が生まれる前、というように補足すれば思い当たる節がある方も多いのではないでしょうか。

当の私が完全にコレ。
ひとつの文化を深く理解しようとすればするほど温故知新は必要不可欠なもので、こうなるのもしょうがない。
日常生活ではあまり身の回りにこういうオタクいなかったので「俺、異端か…?ニヤリ」としちゃいそうになりますが、インターネットにはこういうオタクごまんといますからね。このイキり含めて凡人の思考以外の何物でもない。

とにかく私が言いたいのは、「懐古厨」「インターネット老人会」という二つの概念のみでオタクのノスタルジーを語ろうとすれば、オタクのノスタルジー=自らが経験した若い頃の追想のみ、という偏った理解になりかねないということです。

むしろ「懐古」をする人々と私含む多くの「生まれる前の時代へのノスタルジー」を持つ人々の気持ちは微妙に異なった性質のもの。
「懐古」は古いものを見て安心する感情ですが、私たちはむしろ安心とは程遠く、その未知の文化に興奮していますから。

ただ、いまいち「生まれる前へのノスタルジー」が掴めないなという方も沢山いらっしゃるはず。やはりこの感情はしっかりと掘り下げ、言語化したいところです。

そんなわけで私はアニメ『それでも町は廻っている』8話を題材として「生まれる前へのノスタルジー」を掘り下げていき、この感情は一般的に普及している単純な「懐古」とは少し違うぞ!ということを明らかにしたいと考えます。





そもそもの作品チョイスが今となってはちょっと古い(原作開始が2005年・シャフトによるアニメ化が2010年)という点には、まぁ目を瞑っていただき…


『それ町』が寄せる「消えゆくもの」への視線


アニメ『それ町』8話「全自動楽団」Aパートの大まかなあらすじは以下の通り。
(公式サイトのあらすじは1クールに1本くらいある「筋書きに関係はないキャラの語りをそのまま採用して雰囲気を出す」タイプのものでしたので、個人的にまとめさせてもらいました)


「ゲリラ豪雨に降られ、ある店の軒先で雨宿りを強いられる歩鳥たち。
雨に濡れた服の寒さや湿り気の気持ち悪さに悶えていると、ここが人気のない古ぼけたコインランドリーの前だということに気づく。
不快感を取り除くためしかたなく入店する3人。そこで歩鳥たちは「うどん」や「ハンバーガー」などを販売する変わり種の自販機を見つけて…?


という内容なのですが、内容に入る前に少し映像面の見どころを。

この回はそもそも龍輪直征によるレイアウトがめちゃくちゃ素晴らしいんですよね。服を乾かすために下着姿になる歩鳥たちの身体をカメラ最手前部の障害物で隠すセンスの良さ。

「中期シャフト」って感じの画角ですね
板村智幸とか龍輪直征がメインスタッフだとこういうレイアウト多いイメージですが、近年だと『アサルトリリィBouquet』の夢結さんがソーダを買いに行く回でも明暗の効いた素晴らしい画面がありました。

まさにシャフト・新房昭之が信条とする「下手にパンして画面のクオリティが落ちるなら、フィックスして止め絵を見せた方が作品をコントロールできる」美意識が表れています。
(『アニメスタイル003』インタビューを参照)

『ひだまりスケッチ』『ぱにぽに』など初期シャフト作品で見られた尾石達也・大沼心らの実験性を前面に押し出す作風とは打って変わって、後期のシャフト作品によく見られる安定感のあるレイアウトの力が炸裂していてこれもまた別の素晴らしさがある。

シャフトはこの一年前に『化物語』『懺・さよなら絶望先生』、一年後に『まどか☆マギカ』を発表することを考えると、『それ町』ってこれ以降少しずつ丸くなっていくシャフト演出を先取りしているかのような作品ですね。


映像面の話が長くなってしまった、閑話休題。この話における重要な要素は大きく二つです。

まず第一の要素が、ナレーターによって語られる古代のオーパーツもいずれは存在意義を失い消えゆく運命にあるのだというメッセージ。

そもそも下町にあるどこか時代を感じさせる古ぼけた商店街、その中の閑散とした喫茶店という舞台設定も(メイド服のせいで非現実感が増して忘れそうになりますが)、心のどこかにある郷愁をくすぐるもの。

アニメ版の最終回も広義に取れば生命でさえ「いずれなくなる」恐怖を描いたものでしたし、この「なくなっていくものへの視点」はこの話だけでなく作品全体に通底するテーマの一つと言えるでしょう。

この8話自体の結末もどこかノスタルジーを感じさせるものです。Bパートで描かれる盛り上がった文化祭が終わると、跡形もなくまた静かな授業のある日常が始まっていくというなんとも雰囲気のある終わり方。
ただお祭りを描くだけでなく、あの祭りの後にある虚脱感までも描かれることで視聴者は無くなってしまったものへの感情…ノスタルジーが内包する寂しさ・爽やかさを覚えるのです。

必要とされなくなる「その時」を早く迎えたのがたまたまコインランドリーに設置されていた変わり種自販機たちだったというだけで、歩鳥たちが青春の拠り所としているシーサイドもいつか消滅する。

Aパートの鍵となるあの忘れ去られた自販機たちは、Bパートに至るまで丁寧に描かれたノスタルジーの終着駅、いわば彼らを取り巻く全てのものが行き着く先のメタファーとして物語に緊張感を与えます。

これだけを書くと未視聴の方はまるでこの8話が全体的にめちゃくちゃ暗いみたいに思えるかも知れませんが、実際は全くそんなことがありません。それはなぜか?第二の要素がその大きな要因です。


歩鳥にとっての「未来のマシン」


第二の要素は歩鳥たちによってもたらされた変わり種自販機の「再発見」です。

雨宿りに来た歩鳥たちは寒さを紛らわせるためか、それとも好奇心か?うどん自販機での購入にチャレンジします。コインを入れると、カップ麺よりも安くて早い、でも火傷するくらいアツアツ!古びた自販機が持っていたそんな奇想天外な構造と確かな美味しさ。

歩鳥たちはその古さ故のピーキーな性能を「斬新」と捉え、この自販機を「未来のマシン」と呼びます。
度を越したうどんの熱さに火傷して「加減を知らない未来人だな〜」と口走るくだりはあまりにも味わい深い。


最終的に歩鳥たちは「自販機でうどんを買う」という行為の楽しさにすっかりハマってしまい、小腹が空いた深夜にコインランドリーに自販機目当てで遊びにいくようになったのだった…というエピソードが描かれて終了!

人々に忘れ去られた変わり種自販機たちは歩鳥たちの気まぐれによって、独特の味わい・存在意義を再発見されるのです。


ここで最も重要なことは歩鳥たちにとってこの自販機が「未来のマシン」だったということ。つまり彼女らにとって、確実に生まれる前から存在するはずのこの自販機は「未来」の斬新さを感じるシロモノだったのです。
忘れ去られた過去の機械を未来のマシンと呼ぶ、ここには明らかに倒錯が起きています。しかし同時にこの歩鳥の気持ちは我々にも理解しやすいものなのではないでしょうか?

自らが存在し得なかった時代・観測し得なかったレトロ技術を目の当たりにした人間が抱く、逆にその鮮烈な斬新さに心を動かされる気持ちです。それは自らの知っている時代を思い返して懐かしむ「懐古」とは確実に一線を画すもの。

たとえ対象物が古かろうとも、生まれてすらいなかった人間にとってその対象は「未来のマシン」たりえるという見落とされがちな事実。
知らないという点においては未来の事物と過去の事物の本質は変わらず、そこには未知の文化を覗き見る快感と古いものへの敬意があること。

複雑な若いオタクにとっての「ノスタルジー」感を、女子高生と古い自販機という舞台装置を通して「未来のマシン」として描くことで完璧に昇華させる…
『トップをねらえ!』本編でウラシマ効果によってみんなと全く違う時間を生きるノリコを、アニメのために生きるあまり世間とズレていく自分達オタクのメタファーとして描いたガイナックス並みの超ファインプレー。

『それ町』ってやっぱり凄すぎ!!!


おわりに


私個人にとって、「懐古」も「生まれる前へのノスタルジー」も等しく美しい感情です。

「懐古」における若い頃を思い出し、作品や文化と共に思い出に浸るという行為は作り手にとって本望とも言えるものなのではないでしょうか?

「生まれる前へのノスタルジー」も、本来なら届きようがない時代の作品や文化が若い層に連綿と繋がれていくもの…そんな行為のどこを否定できましょうか。

オタクのみんな、人に迷惑をかけない程度に目いっぱい懐古していこうぜ!!!!!!




追伸:アニメ『それ町』のop歌手は坂本真綾さんなのに、本編に坂本さんが一切出ていないのはすんごく渋くてかっこいいと思う。
純粋な歌唱力で評価されているという漢気が良いんだよな、これと同じこと言ってる人オモコロのヤスミノさんしか見たことない


追伸その2:ところでつい2時間前に放送された令和の超名作アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の10話、ライブハウスの入り口にコロナ対策の証としてお店に渡される虹のポスターが貼られていて、絶妙な「オンエアされた時代との一体感」を感じました。
島耕作のような気骨ある作品ならまぁ分かるけど、きらら原作のアニメでコロナを消化・昇華しているのって実は凄いんじゃないかと思う。あの描写もいずれは、後追い世代のノスタルジーになっていくんだろうな

この記事が参加している募集

#アニメ感想文

12,683件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?