エッセイ:アニメ界隈の「豊作・不作」について考える
みなさん、こんばんは。
アニメ雑誌のキャラクター人気投票でいまだに上位に入り続けるさくらちゃんの勇姿に感動すら覚えているオタク、藤吉なかのと申します。
プリパラ・それ町と気合い入れて書いた考察評論記事を連続で公開したので、肩の力抜いてエッセイを書こう…と書き始めたら思いの外ヘビーになってしまいました。以下、エッセイ。
前置き
この記事に辿り着いたみなさんは、ベクトルの差こそあれどアニメやオタク文化が大好きな方ばかりでしょう。アニメオタクの界隈でよく聞く・使われる言葉と言えば何を思い浮かべるでしょう?
………違う違う、「欠損」「石化」じゃありませんよ?アレは少数の作家から分厚めの同人誌が長く出続けるタイプの性癖ですから。
閑話休題。
そう、そのクールのアニメへの全体的な評価をする際に使われる「豊作」「不作」という言葉です。
僕も少し前までは知り合いとの会話で使ってましたし、Twitterでも頻繁に見る単語なことに間違いはない。
ただ自分はここ一年くらい、この言葉を使うことに抵抗感が出てきました。
その理由について最近答えが出たように思いますので、こうしてエッセイに書こうかと。
「豊作」「不作」の基準とは
そもそもアニメ界隈で使われがちな「豊作・不作」と、これらの言葉の本来の意味にはどのような違いがあるのでしょうか?まずはそこから整理していきたい。
まぁ予想した通りの意味ですね。オタク界隈においてはこの「農作物」が「良いアニメ」に置換されていると考えるのが自然です。良いアニメがたくさんあるクール…2022秋(現在)はもちろんのこと、『ゆるキャン△』『よりもい』ががっぷり四つで組み合った2018冬なんかもよく例にあげられますね。最近だと個人的には『平家物語』『着せ恋』がバッティングしてしまった2022冬も捨てがたい。
ここで私が注目したいのは、「豊作」の基準についてです。農業においては平年の収穫高が基準のラインとなり、豊作・不作が判断されるのでしょうが……
アニメでは何が基準となるのでしょうか?
アニメの良い・悪いを判断できるポイントはたくさん存在します。作画センス・演出・脚本・音響etc…様々な要素が絡みあい、活かしあい、総合的な作品の評価へと繋がっていくのです。
ただ芸術はスポーツとは異なり、評価の基準は各々観客の主観によるところが大きい。
嫌いな役者が出ているから作品自体にもマイナスの感情を持っていたり、芸術に触れ始めた頃に知った作品に対して特別な思い入れを持っていたり…
それらの主観・色眼鏡を今流行りの「個人の感想ですよね?」と片付けることは簡単かもしれませんが、それは芸術「鑑賞」においては意味を持ちません。(評論だと少しだけ意味が…無くもない)
なぜなら芸術鑑賞において何よりものを言うのは、結局「個人の感想」だからです。
アニメに触れて「最高だったよ〜!」と喜ぶ人に「でもそれ貴方の感想でしょ?」ということはできますが、それは正論ではあれど何の意味も持ちません。
いわゆる「真だが無意味な指摘」というやつ。
ただ、私の持論ですが「芸術に絶対的な勝敗はないが、絶対的なクオリティの差は存在する」と考えています。
作画・CG分野に絞って考えても「動き」「美麗さ」何を基準にするかという違いこそありますが、やはり優劣は存在する。
「『DYNAMIC CHORD』と『ぼっち・ざ・ろっく!』、同じ音楽アニメだけどどっちが好きなの?」そう問われれば人によって答えが異なるでしょう。
ですがどちらがクオリティが高い作品かと言えば後者を選ぶ人が多いのではないでしょうか。
じゃあオタク100人の内100人が『ぼっち・ざ・ろっく!』の方をより好きかと言えば、それは絶対に違うでしょう。『DYNAMIC CHORD』に心を救われた人は確実にいるだろうし、そういう人は確実に『DYNAMIC CHORD』の方が好きと答えるはずです。
結論として何が言いたいかというとですね…
アニメにおける「豊作」は農業におけるそれのように数字で対比できる概念とは異なり、あくまでそれぞれが主観によって認定するしかないということです。これは大きな違いと言えます。
オタク側の「豊作」認定は傲慢さと紙一重
アニメ界隈における「豊作」はあくまで主観でしかなく、同時に主観でしかないことに意味があるということが分かったところで次の話へ。
先述した通り、今期(2022秋アニメ)は一般的には大豊作と言われていますね。実際自分も面白いアニメがありすぎて、幸せな多忙さを日々噛み締めています。
それをいつ確信したかと言えばやっぱり、『ぼっち・ざ・ろっく!』の3話と『アキバ冥途戦争』ボクシング回でのアニメ『あしたのジョー2』パロディあたりですが…
それでも私は、個人的には「豊作」という言葉は使いたくない!!
# 〇〇と繋がりたい タグとか付けまくるツイート絶対にしたくないんですけど、それと同じくらい嫌かもしれない。
その理由として、「豊作とは、農業において当事者の言葉でありがち」ということが挙げられるのではないかと気づきました。
農業における「豊作・不作」は、作物を育てている農家の方々や、その道のエキスパートである農林水産省の人たちが発表・宣言しているイメージがあります。
つまり彼らはあくまで作物に責任を持っている当事者だからこそ、良い結果につけ悪い結果につけ「今年はヤバい…!」と発表している。
そこには自分のケツは自分で拭く、そんな覚悟が感じられてカッコいい。気持ちの良いケジメの付け方で、納得感があります。(これも個人的な解釈の域を出ませんが…)
じゃあオタクはどうか?
私を含む多くの一般オタクは単に作品を作り手側から受け取る側であり、一視聴者にすぎません。
あくまで受け手の域を出ない人間が、豊作という「当事者が責任を持つための言葉」を使うというこの構造。
個人的に私はこの構造、ものすごい傲慢が潜んでいるように感じるのです。そこがどうも、身体に馴染まなかったのです。
かといって、私は「豊作」という言葉を使ってるオタク全員を傲慢と罵る気は全くありません。便利でキャッチーかつ汎用性の高い言葉で、今やアニメファンの共通語に近い!
これ最初に考えついた人は、たぶんすごくセンスがある人なんでしょうね。
ただ私にとってこの「豊作」という言葉の劇的なキャッチーさは、オタクがウケを狙うあまりにやりがちな「レッテル貼り」に近いようでモヤつきが残る。
水星の魔女やスタァライトを、感想を述べやすいからと言って「実質ウテナ」とレッテル貼りすることはあまりに作り手への敬意に欠けた発言です。
また『リズと青い鳥』におけるみぞれのあまりに普遍的かつ美しい感情を、乾燥にしやすいからと言って安易に「サイコレズ」みたいな文脈にレッテル貼りするオタクとは絶対に仲良くなれない…
アニメや映画・芸術全般をコミュニケーションや感想投稿による対人欲望充足のツールでしかないと割り切って考えるなら、この傲慢なまでにキャッチーさを求める姿勢はむしろ正しいとも結論づけられる。
個人的にはそうなりたくないものですが。
おわりに
先述した通り芸術は主観で各々感想を持ち、考えられることが醍醐味の一つ。
岡本太郎は書籍『今日の芸術』において、芸術の鑑賞者もまた価値を創造している芸術家といえると主張しました。
芸術を見たそれぞれの人間が違う感想を持つこと自体、すでに芸術的営為であると主張する太郎の言葉は優しくも、厳しくもあります。
他人が作ったキャッチーなフレーズを繰り返して楽しんだ気になり、コミュニケーションツールとしてミーム的に消費し満足するのは、「芸術家」と言えるのか…?
ウケやすいキャッチーさを求めすぎるあまり、我々オタクは時に残酷なまでに傲慢さを持ってしまってはいないか…?
私はできるだけ「芸術家」の姿勢でありたい、少なくともそうあろうとし続けることを辞めたくないと思います。
この教訓は誰かに対して指摘するのではなく、私個人が自戒の念として常に持っておきたい。
ちなみにめちゃくちゃ余談なのですがこの話を以前discordの大きいサーバーでした時、「『豊作』ではなく『大漁』ならどう?」と言ってくださった方がいました。
………「大漁」の平和な響き、凄くないですか?「アニメは今期も大漁だべなぁ〜」って。
ものすごく呑気!70'sフォークみたいな味わいもあって、あまりに最高すぎる。理屈じゃなくて感覚的に最高です、あのサーバーには天才がいる。
その方に敬意を表して、ヘッダーは大漁旗の申し子こと北条そふぃさんです。悪しからず。
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