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『お兄ちゃんはおしまい!』が描いた至高の"美少女"像〜クラスメイトの男子に注目して〜

2023冬アニメも終わったので、その代表作である『お兄ちゃんはおしまい!』における美少女像を"クラスメイトの男子"に注目して語っていきます

インターネットってコンテンツの奴隷たちが主観をぶつけ合う決闘場(コロッセウム)なので、「ここは違うんじゃないの?」と思った方はどんどん反対意見で僕を刺しにきてください。



『お兄ちゃんはおしまい!』を語ろう


『無職転生』で知られる新鋭・スタジオバインドがオタクどもに叩きつけた『お兄ちゃんはおしまい!』

妹に一服盛られ、兄が女の子になってしまう!という刑法にギリギリ存在しなさそうな犯罪を的確に犯していく始まり方には「攻めすぎでは!?」と度肝を抜かれたものですが。

蓋を開けてみれば、TSによって様変わりした日常の風景から自分を見つめ直すというシナリオはむしろ王道日常アニメの趣すら感じさせるものでした。


アニメーションとしても非常にクオリティが高く、リアル・デフォルメを問わない作画の良さはもちろんのこと…

色彩設計、ほんわかした雰囲気を醸し出すためのバチバチに決まった構図、キャラクターに魅力的な声を与えた声優さんたち…

アニメ作品としてのストイックさすら感じさせるクオリティの高さは、要素を挙げ出したらキリがないほどです。

↑こちら、めちゃくちゃタメになる解説動画様


ただ、当たり前ですがこの作品の魅力は作画や色彩などのアニメート面・声の演技などの音響面のみに依るものではない。

なんてったってシリーズ構成は"あの"横手美智子ですから。
原作有りのアニメやらせたら右に出る脚本家はかなり少ないんじゃ無いだろうか?
その安定した構成力は、本作でも存分に発揮されていたと思います。

特に私が横手美智子(および原作者ねことうふ先生)に唸らされたのが、「まひろちゃんに魅了されてしまうクラスメイト男子」の存在です。

RPGの話を嬉々として、時に自分たちよりも楽しそうに話すまひろちゃんに淡い感情を抱き…

まひろちゃんによる「自分が持つ女の子としての魅力に無自覚な美少女」ムーヴのとばっちりを常にストーリーの最前線で喰らってドギマギする。

メインキャラたちと比べるとその出番は決して多くはないものの、確実に多くの視聴者に好かれる素晴らしいキャラたちでした。


当の私も「こういうキャラ、みんな好きなんだろうな〜〜」と思いながら、例に漏れずあの男の子たちの出番を今か今かと待っていましたし…
Twitterを見る限りそういった方は少なくないようで。

ではなぜ私たちは、そんなにもあのクラスメイト男子たちに魅力を感じているのでしょうか?


それは私たちが『おにまい』という作品が持つダイナミズムに身を任せ、最もオタクとして気持ち悪い形で作品に没入できるのはすべてあのクラスメイト男子たちのおかげだからです。

作品の没入を助け、我々がさらに多様な形でこの作品を楽しめるようにサポートしてくれるのが、あの男子たちなワケ。

ピンと来ないな〜という方が100%でしょうから、順を追って説明していきます。



美少女とは、作品内世界でも美少女なのか?『たまこまーけっと』を題材に考える


アニメだけでなく、ソシャゲやエロゲなどクールジャパン(死語)な作品にとって欠かせないのがヒロイン、および美少女の存在でしょう。

"ヒロイン"という言葉が"美少女"とイコールに感じられるほど、創作の中に登場するヒロインは須く美少女。

もちろん美少女じゃなけりゃ画面越しの我々は満足しないってところもあるので、なぜそのような状態になっているか?なんて事は説明するまでもないですね。


ですが、果たして彼女たちは作品世界内においても「美少女」とみなされているのでしょうか?

もちろん冒頭でいきなり説明役の相棒キャラがズザーと現れて「容姿端麗・才色兼備の生徒会長、〇〇さんだ!」というようにガッツリ説明してくれる作品も多いと思います。


またアイドルもの・芸能もの作品ならば、キャラが美人であることは最早その立場に立っているキャラクターにおける前提として、当たり前に受け入れられているはずです。

この子は"アイドル志望"…なら美少女なんだろうな!というように、考えるまでもなく早合点してしまっているところがあるはず。

たまに風格で分からせてくる強者もいますが

しかし、果たしてこの世の全ての美少女キャラクターが作品内世界でも"かわいい"or"美人"と扱われているかには疑問符が残るところです。
実例を挙げて考えていきましょう。


例えば京都アニメーション制作・稀代の名作『たまこまーけっと』の主人公である北白川たまこちゃんはどうでしょう?

ミュージカル調のop、最高

このように画面越しに佇む我々から見ると、稀代の天才・堀口悠紀子さんの筆致で描かれた文句なく可愛いキャラクター。
若手時代の洲崎綾さんによる、独特の語尾をあげる発声もめちゃくちゃ萌え!なんですが…


実は彼女はクラスで美少女として確固たる地位を築いていたり、異性にモテまくっていたりはしません。

たまこちゃんは幼馴染のもち蔵に好かれているだけで、決してクラスで目立つような派手な美少女ではないのです。

むしろ『たまこまーけっと』劇中でモテる美少女として描かれているのは、たまこちゃんの友人である常盤みどりさん。

過剰に誇張されない切ない恋愛模様も見どころ


頻繁に男子から告白をされる・クラス内でも美人として知られているなど、みどりさんは不特定多数から認められた美少女であることが描かれます。

でも画面越しに佇む我々からすると、たまこちゃんとみどりさんの可愛さに大きな差はない様に感じるのでは?

確かに可愛さのタイプこそ違う2人。
たまこちゃんと比べると、なんとなく垢抜けてる感じがみどりちゃんから見て取れるのも事実ではあります。

ただ、みどりちゃんがよく知られた"美人"的な立ち位置を築いているならば、たまこちゃんもまた"可愛いよね〜"と思われていても全然おかしくない。
2人の容姿に"普通の子"と"美人"を隔てるほどの大きな差は見受けられません。


それでもたまこちゃんは"普通の子"、みどりちゃんは"モテる可愛い子"として作品内を生きている。
これはアニメや漫画の美少女表現を考え直す上で、非常に示唆に富む例ではないか?

重要なのはこの作品を見た時、私は初めて「画面に映っている美少女キャラクターが作品世界内では美少女として扱われていない可能性」に気づいたということです。


「アニメ的な美少女は作品世界内でも美少女なのか」というテーマは、萌えアニメ大好きな私にとって大切な問題でした。

この映っている画面と作品内世界の価値づけが"乖離"している不思議な感覚は、どこか気持ち悪い。私はとにかくこの答えを出したい・探したいと東奔西走しました。



二次元美少女はただ"在る"ことがすでに価値である


この乖離の感覚にひとつの答えを出しているのが、「ユリイカ」アイドルアニメ特集。
漫画研究者・泉信行氏がこちらで作品内世界における美少女の在り方について、非常にまとまった意見を述べています。

泉氏は美少女表現を風景画を描く画家に例え、「大衆の気づかないそのモチーフの魅力を見る者に伝えんとしている」営みだとしています。


噛み砕いて説明すれば、アニメなどの創作における美少女表現とは"そのモチーフが1番可愛く輝く瞬間を抽出した"作品であり、決してそのキャラクターが作品世界内の価値観でも本当に美少女である必要はないという意見を示している訳なんですね。

作品世界の中では普通の女の子として扱われている子が、かけがえないほど美しく見える一瞬を常に描く。それが美少女表現…!
目から鱗でしか無い、見事な考察です。


さらには、泉氏は違う角度からこのようにも論じています。

二次元であること自体が「二次元ヒロイン」の優位性であって、つまりその少女が作品内(二次元)でどんな位置にいようと、現実(三次元)に住む愛好者からすれば等しく価値が高いのだ。

泉信行「アイドルアニメと美少女の表現史」より 
太字は引用者によるもの


理想通りにはいかない三次元の人間を当たり前に目の当たりにしている我々にとって、理想を詰め込まれた二次元の少女はただ"いる"だけで至上の価値がある。
これを踏まえればブルアカR18絵増加ペースに比例して少子化が進んでいる(ソースなし)のも、致し方ないこと。

つまり私たち視聴者が作品内世界で「普通の女の子」・「美人でモテる女の子」の違いを簡単に見てとることができないのは、彼女らがすでに「二次元である」という唯一無二かつ最上のアドバンテージを有しているからなのである、と。


アニメのキャラクター達がそんな唯一無二かつ最上のアドバンテージを持つかけがえのない存在だからこそ!
最近の我々オタクの中には、彼女たちに対してどこか必要以上に距離をとっている方々も見られる。

「二次元である」ことが何よりの美しさの証明である彼女たちを、自分の"夢"的な妄想や恋愛の対象として本格的に引き込むのは彼女たちの美しさのアイデンティティを失わせかねない…という考えなのでしょう。
意識的ではないにせよそういう思想があるのかもしれない。

"二次元"というかけがえのなさを大事にして、無意識にキャラクターとの距離をとってしまう感覚。
自らキャラクターとの間に線を引いて「カップリング」というキャラ同士の花園を観測するにとどめる行為は、二次元を大切に扱えばこそ生まれた営みなのかもしれないですね。



この1カットを取っても演出が効いている

それはそれとして『リズと青い鳥』のみぞれを「クレイジーサイコレズ」ってレッテル貼りしてカプの材料にしてるオタクは全員地獄行きですけどね。
こんなに作品を蔑ろにしてる言葉無いだろ、巨人が履いてる革靴の中敷きとかに挟まれて苦しんでほしいもんな


『おにまい』男子たちが果たした「視点の転換」


前章で解説した"美少女"という考え方を踏まえて、『おにまい』におけるクラスメイトの男子(おにまいボーイズ)たちが果たした役割について考えていきます。

先ほどの理論でいけば、私たちは彼女たちのことを画面越しに「かわいすぎる!」と認識しながらも、妙に達観した目線で眺めているのです。

最高すぎ

「この子たちは二次元にいるからこそ美しいんだ」という無意識が、私たちとキャラクターの間に線を引かせてしまう。
その無意識の線引きがドミノ倒しのように巡り巡って、オタクたちの"達観"を生む。

達観した壁視点での楽しみ方も、ひとつの素晴らしい楽しみ方ではあります。見守る視点というのはクセになりますから…

ですが『おにまい』はそういったカップリング的な楽しみ方だけではなく、「俺嫁」的な楽しみ方も受容しうる懐の深い作品。
作品の楽しみ方の方向は多彩であるべきですから、こういったオタク側が勝手に引きがちな"線"を断ち切るキャラクターも必要になります。


そんな時に現れる救世主が、おにまいボーイズたちなんです。

彼らは、我々のようにオタクコンテンツに慣れきった人間が距離を取りたいがために分かっていながらも受け流しがちな、「何気なく接してるクラスメイトがめちゃ可愛くて、しかも俺らにだけ距離近いのって……いいじゃん……」という原初の快感に躊躇なく浸ります。


無意識のうちに我々一部のオタクは感情を強く動かされることを避けたり、先述したように二次元との距離を縮めることを良しとしなかったり…

なんだかんだと理由を並べて原初の「この子がクラスメイトだったら、楽しいだろうなぁ…」というキモさ満点の妄想に心から浸ることを回避しているのではないか?


一方おにまいボーイズがまひろちゃんに抱く「可愛い」という感情は、私たちが作品世界の外から抱く「可愛い」という感情と文字通り一線を画すものです。

なぜならおにまいボーイズたちは我々から見たアニメのヒロインが持つ「二次元美少女である」というアドバンテージを意識することすらせず、まひろちゃんを"可愛い"と感じているから。

彼らは当たり前ですが、まひろちゃんに対して「二次元美少女」だとか一切思っていません。ただ急にクラスに現れた、距離が近くて俺のこと好きかもしれない女…………そういう淡い勘違いをしているのです。


おにまいボーイズが1人の男子として、1人の女の子(?)であるまひろちゃんに勘違いと恋愛未満の感情を重ねていく様子は可愛らしい。

ただそれだけでなく、彼らの様子は視聴者の"若気の至り"的なノスタルジーも刺激します。
「俺にもそういう勘違いの時期あった〜」という実体験に起因する懐古、もしくは「そういう美少女がいたら性癖歪まされてただろうな…」という妄想に起因する懐古の感情ですね。

ノスタルジーという感情に"実体験の有無"が関係ないことはこちらの記事で証明済み。


そういったノスタルジーの刺激が誘発するのは、作品への自己投影です。
自らの過去の経験(もしくはそれを踏まえた上で本当はこうありたかったという過去への叶わぬ願望)を作品に刺激された瞬間、部分的であれ視聴者は作品に没入せざるを得なくなるのですね。

ノスタルジーを鍵として一度でもおにまいボーイズたちに感情移入すれば、その先に待っているのは先述した「この子が隣の席にいたらなぁ…」という原初の妄想。

彼らは達観した壁視点になってしまいがちな一部のオタクたちに対して、「俺嫁」的な楽しみ方をガイドしてくれるゲートウェイドラッグのようなキャラクターでもあるのです。


さらにおにまいボーイズは作品全体のシナリオが持つ流れを上手く視聴者に受け入れさせる…そんな重要な役割をも引き受けています。

緒山家を中心に、幾分か閉鎖的に展開していた『お兄ちゃんはおしまい!』前半の物語は、感情移入というよりも先述したような"達観"を誘発するものでした。
カップリング好きな人がよく言う「壁になりたい」じゃないけど、閉鎖的な環境で関わり合うきょうだいの姿はまさに「ただ眺めていたい」もの。


しかしシーズン中盤から、舞台は家に比べて開放的な社会である中学校に移ります。
そうすると視聴者はいつまでも閉鎖的な空間で戯れる美少女を達観するだけではいられなくなってきてしまう

美少女たちにも"社会との関わり"というタスクが(嫌ではないにせよ)現れ、閉鎖的なシチュエーションにおける日常を眺める箱庭的な楽しみ方は一度ここで打ち切られてしまう。

そんな私たち視聴者の適切な感情移入先として、おにまいボーイズが登場します。



彼らの登場によって視聴者は今までの閉鎖的な美少女たちの関わりを達観する構図から、世界にいきなり現れた美少女にドギマギする当事者視点へと誘われる。

より"美少女"を効果的に描くため、閉鎖社会→開放社会という舞台の転換と連動して視聴者の視点もまた神→当事者へと転換していく


このように『お兄ちゃんはおしまい!』には、舞台の移行と連動した巧みな仕掛けが施されていると考えることができます。
そしてそのきっかけとなるキーキャラクターこそが、我々の愛するおにまいボーイズなのだ!


おわりに

この記事、最初は2023冬アニメの感想を全部まとめる記事にするつもりだったんですよね。

2023冬アニメに至るまでのおおまかなTVアニメの流れを踏まえた上で、見た各作品の良いところ・好きじゃないところを並べ立てる簡易的な記事にするつもりだったんです。

いつのまにか1作品で1記事書いとるやんけ!!!!!!!!!オイ!!!!!!!!!!!!


各アニメの良かった回や自分の考えたことを丁寧にまとめていったらどんどん『おにまい』の文量が伸びていき…次第に「美少女」論の部分が大半を占めていきました。

本当は『おにまい』における"鏡"モチーフの利用法や、素晴らしかった作画のシーン、卓越した技術を持つスタッフさんの話などそういった映像・演出面の話も盛り込みたかったのですが…

脚本の美少女論をガンガン書いていくと内容もかなり込み入ったものになっていった。
読む方にとってこの情報量は既にかなりの負担を強いることになると考えて掲載は断念しました。

推敲の良い経験になりましたし、いつか気合を入れて描きたかった「美少女に対する印象の乖離」のテーマを取り上げられた事は満足感があります。


最後になりますが、こんな込み入った長めの記事を最後まで読んでくれている方に感謝!
感想をいただけると嬉しいので、なんかこう…分かる形で何かお褒めいただけると嬉しいです。

新年度からもそこそこアニメの話や日記を更新するつもりなのでよろしく!

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