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恋愛ヒエラルキーを脱出せよ

近頃、周囲の友人から彼氏・彼女を紹介されたり恋愛の悩みを相談されることが増えた。今年に入ってからその数、ざっと見積もっても7、8件だ。

時には恋人の存在に驚き、幸せのピークにいる友人の言動に怒りを覚え、恋人の影すら見えない我が身を呪った夜もあった。

そして、友人らが僕に恋愛の話をしたり恋人を紹介したがる理由はなんとなくわかっていた。

僕は恋愛ヒエラルキーの底辺どころか、属してすらもいないことを彼ら彼女らは本能や経験で感じているのだ。それは、まるで思春期の女子が理由もなく自身の父親を嫌悪するように。あるいは文化・言語の違う国の人に好奇の目を向けるように。

では、恋愛のヒエラルキーから外れるとはどういうことか。
「モテない」なんて生やさしいものではない。「モテない」はあくまでも「モテない」だけだ。僕は、モテないながらも恋人をつくり恋愛を謳歌する者を何人も見てきた。

正確に記述すると、「通常の社会生活において、周囲の他者に恋愛感情を抱かれず、周囲の他者に恋愛感情を向けると強い抵抗感・嫌悪感を催させる人」である。

この定義において気をつけるべきことは、単純に容姿や社会的地位などによってヒエラルキーを脱することはないということだ。
ブスならブスなりに、クソ陰キャならクソ陰キャなりの恋愛がヒエラルキー内で必ず巻き起こるからだ。これは、どのコミュニティでも見受けられる。

わかりやすく言うと、僕は友人らの擬似家族ポジに立ってしまっている。(どんなに仲が良くなろうと家族と同じポジには居れないため擬似家族と表記した)
家族というコミュニティは徹底して「恋愛」の要素が剥がされる。それが当たり前だし、そのルールを破ろうものなら人としての資質を疑われるだろう。それは、理屈ではなく本能の管轄だ。

そう、僕は大多数の同世代の男女が属するヒエラルキーに属していないため妙な安心感があることを自覚している。

同じヒエラルキーの人間に恋人を紹介したり悩みを相談したりすることに比べたら僕を起用する方が遥かに角が立たないし、お互いに何を言おうとそれは「外側からの意見」として消化される。要するに楽なのだ。お互いに。

こんな立場、寂しいと思われるだろうか。同情されるだろうか。
だが考えてみてほしい。この、何層にも折り重なった恋愛のヒエラルキーから完全に解放される状態を。
誰からも性的な目で見られることもなく、男だとか女だとかというフィルターを通して扱われることが少なくなる生活を。

恋愛対象にカテゴライズされず、1人の人間として正面から無防備に受け入れられることの居心地の良さを、僕は知っている。

恋愛ヒエラルキー、脱出するのは今だ。


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