見出し画像

黄色いそれはお守りの代わり|あのひのひかり

今年の初売りで黄色のマフラーを買った。カシミヤ100%で15,000円もするそれは、仕事を辞めて地元に戻ったばかりの私にはもったいないようにも思えた。でも多少足が出るなんてことには構ってられない、だってそれはお守りとして買ったのだから。

大学を卒業して会社に入ってから、「自分そのものでいること」がとても心もとなくなった。私は私でしかないと思っていたのに、当たり前のように「新卒」「女性」「23歳」というタグをつけられて、上司が私に何か言うことを聞かせたいとき、ミスを糾弾したいとき、自らの優位性を示したいときにそれを指さすということが日常の一部になったからだ。

しばらくして知ったことだが、違う大学に通っていた友人は教員から同じような扱いを受けたこともあるそうで、学生を一個人として扱うのが当たり前だった母校の学科が余計ありがたくなった(というかそれ以外が認められるコミュニティなんて消滅した方が世のため人のためです)余談ここまで。

「とにかく極力ナメられないようにしなければ」と、浮かんだ解決策は「『強い服』を着る」ことだった。

古代生物のイラストが描かれたTシャツ、幾何学模様と動物が組み合わさった原色のワンピース、赤いパンプス...私がまとったたくさんの洋服たち。いったい何がどこまで効果があったのかはわからない。どんな服を着ていっても、批判も称賛もされなかったし、当然周りが変わることもなく、結局、内外さまざまな事情が重なって私は会社を離れた。

ただひとつ、確かなこととしては『強い服』を着ているときは「そのままの自分」よりもほんの少しだけ強くいられる気がした。うまく笑ったりしゃべったりするのがずっと下手くそで、すぐに自分の内にこもりたくなる、その背中をぐっと後ろで支えてもらっていた。お守りを握りしめるように、これからも強い服を生きていこう、と思った。直後に「某アパレルブランドのキャッチコピーとかぶってるやん」と頭の中にツッコミが響いたので「お前ほんとそういう情緒ないところあかんで」と返しておいた。

黄色いマフラーは、服で自己主張がしづらい冬のお守り代わりになってくれた。一番好きな黄色が首に巻かれていると安心したし、すごく暖かくて、年がら年中「顔色が悪い」と言われる私のほっぺたもちょっぴりピンクになったのではないでしょうか。

2年足らずの会社勤めで、人間関係というものがどんどんわからなくなった。自分の聞く、話す能力にも自信がなくなったし、どんな言葉が正しかったのか、間違いだったのか今でもたまに思い返すと気持ちが重たくなる。
けれども、こうやってお守りを身に着けて日々を生きていけるのだったらもう少し何とかなりそうだなとも思う。

これを書いているのは、半袖のシャツを着ている5月の半ばでマフラーはもう箪笥にしまった。

いまは「黄色の靴下」と「鳥と幾何学模様が組み合わさったスカート」と「聖徳太子がプリントされたTシャツ」をお守りに日々を過ごしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?