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ラ・ラ・ランドとズートピア。

アカデミー賞の発表が終わり、蓋を開ければ作品賞は大本命と言われたラ・ラ・ランドではなく、ムーンライト(日本では未公開の上4月だか5月だかにならないとやらない)がとって、その発表には前代未聞の封筒取り違え事件なんかもあったりして、まあそこんとこはビックリだったけど、実は今回のノミネートのラインナップみて「あ、本命本命言われてたやつが逃すパターンだな」と思ったのは実際にみたラ・ラ・ランドが歴代のアカデミー賞受賞作に並ぶに値するほどの傑作とは個人的に思えなかったから、というだけではなく、観てないから良し悪しもわかんないけど、ノミネートの中で黒人監督の作品がムーンライトしかなかったからです。で、やっぱりそうなった。

案の定、去年のアカデミー賞で「アカデミー賞は真っ白」タグがSNSを駆け巡ったニュース、トランプ大統領誕生による象徴されるアメリカでのド保守的世界観の拡がりに対するハリウッドの危惧と絡めた論評が多いし、私もそう思う。つまりアカデミー賞はとても「政治的な」要素を含むショーだってこと。

その上で、ムーンライトが作品賞でラ・ラ・ランドとズートピアが絶賛されるハリウッド、というのが、ハリウッド的なポリコレの限界なんだな、とも思ったな私は。そしてその状況に対してはわりと危惧を抱いてる。

反トランプだとかリベラルと言われてるハリウッドではむしろ、そういう見かけよりもはるかに保守化が進んでるんじゃないか。つまりこの「擬似リベラル」の絶妙なバランスが、アメリカ都市部のリベラルと言われてる地域の今後なんじゃないか、という気がしてならないのよね。

以下ネタバレ含むため注意

ラ・ラ・ランドの何が特につまらなかったか、という話は前のエントリで書いた。そしてズートピアがアニメ賞受賞と聞いた時にも、あーこれ同じような引っかかりのあったアニメだったな、ということを思い出したのだ。

日本でも大人気だし決して駄作ではないこの2つの作品に物申すのはかなり勇気が要るけれど、でもここんとこに誰も引っかからないようになったら社会の平等から一歩後退したことになるよな、って思うから書いておく。

ズートピアという映画も、小さな子供から見られるアニメ作品ながら、心の中にある差別の問題や、多様性とか文明の衝突問題をなかなかまっすぐに描いていて、とてもよい映画だったと思う。

そして保守派の台頭、トランプ政権による移民排除の流れをみたハリウッドが、この作品にオスカーを与えたことには、自由と民主主義を重んじる心意気みたいなものが現れているとも言える、とも思う。

だけど、一見進歩的なこの作品にも、私が近年のハリウッド映画にチラッと感じる居心地の悪さはあった。

ズートピアのヒロインは若いウサギの女の子、ジュディだ。真っ直ぐな正義感と希望に溢れ、警察官を目指す。

そんなヒロインとひょんなことから知り合い、やがて彼女をサポートする相棒になってくれるのは詐欺師の狐の青年、ニック。なんつうか種族が違うし恋愛要素は低めでバディものではあるんだけど、でも彼らは明らかにジェンダーを持つキャラクターとして描かれている。

物語の中で、差別される弱者側の草食小動物であったジュディは、ある秘密を暴いたことから、肉食動物たちに対する社会の差別の扉を開いてしまう。そして自分自身の中にも、他の種族に対する差別意識があったということに、苦い形で気づかされることになる。この、あっという間に強者と弱者が反転し、差別されていた側が差別する側にまわるさまの描き方は本当に見事だと思うし、大人から子供まで必見だと思う。

でもそこで私は思うのだ。こういう(時には鼻持ちならないほど)頑張り屋の優等生で自信満々だけど社会経験の浅いジュディが、偶然の出会いによって自分の中にあったダメな部分や間違った考えに気づかされる的なパターン、なんでいっつも女子が演じる役なんだろうね、と。

そして、若干アウトサイダー気味で最初はヒロインに対して冷たく嫌な奴に見えた男が、付き合ってみると結構いい奴で、最終的にはヒロインをなんの得にもならないのに時には命がけで助けてくれちゃうアガペーな流れ、鉄板すぎない?と思うのよ。んで、なんでこういう役は必ず若い男の役回りなんだ。

ズートピアのニックも、ラ・ラ・ランドのセブも、この美味しい役回りを与えられた「真の」主人公だ。作品を見終わった観客が好きになるのは、一見アウトサイダーだった彼らのほうだ。対して、作品のオープニングからエンディングまで出てきて物語をまわすヒロインであるジュディやミアのキャラの薄っぺらさ。愚かな若者が世の中を知り、人の優しさを知り、賢く強くなっていく。なぜその学習者の役は、常に若い女の子にあてがわれるのだろう?

ミアはヒロインということになってるけど、基本的には愚かで信念の弱い女の子であって、セブの助けなしには夢を叶えられなかったであろう人物として描かれる。

ズートピアのジュディも同じだ。ニックとの出会いなくして、彼女は自分の内なる差別意識に気づくことができたのだろうか?怪しい。しかもこのジュディ、かーなーりー図々しくニックを巻き込む。単に積極的、というには図々しい。いろいろ事情があるにせよ、客観的に言えば警察官の地位を利用してニックを巻き込み、彼に甘えている

そういう『なんか微妙』な役まわりを常に若い女の子に担わせるハリウッドの基本文法、これが保守主義でなくてなんなのだろう。

こういうものを繰り返し見せられると、ハリウッドのポリコレの限界は所詮、黒人白人ヒスパニックといった人種問題までなのでは?と疑わざるを得ない。

人種問題の手前にあるジェンダーによる差別は「だって女性にも職業差別なさそうな役柄を割り振ってるじゃん?」「トロフィーワイフじゃなくて、若いけどちゃんと主体的に動いている女性ですよ!」的なエクスキューズによって無効化される。もちろん作品はPC的な義務を果たし基準値はクリアーしている、よってこの作品に男女差別は存在しない、疑問を呈することも許さない、という無言の圧力。

おそらくは信仰問題がテーマだったたためにスコセッシの「沈黙」が撮影賞にしかノミネートされてないのもハリウッドらしい「危うきに近寄らず」だけど、LGBT問題に関してもアカデミー賞は長年にわたり極めて慎重だ。こういうものへのスルー具合で、アカデミー会員が何に警戒して何から目を背けようとしてるのか逆にわかっちゃうよね。

そうした消極的な保守主義に加えて、お定まりの「鼻っ柱は強いけれど愚かな女の子が、スレてるけど根はよくて正しい知見を持った男によって何事かに気づかされる」というテンプレを様々なシーンで押し付けてくるハリウッドの嗜好というのは、これもう積極的な保守主義とかマチスモとかと呼んでもいいのではないだろーか。

マッドマックスが流行った時、あちらの記者会見なんかでいかにもミソジニー的な質問が平気で飛んでたことなんかを見ても、アメリカの映画人だから、アメリカの報道人だから、みんなリベラルだとか進歩的だなんてことはない。

結局はかなりの割合で存在する保守的な観客のほうを向いて商売やっていくんだから、授賞式のスピーチで反トランプをいくら叫んだって、作品じたいには懐古趣味とか生活保守的な雰囲気の粉が振りかけられていく。

そんな風にしてどこかで折り合いをつけてしまう映画業界の在りようが、この先のアメリカの国全体の縮図にも見えて、なんだかひやっとした気分になってしまった。

ほんと、どちらの映画もお好きな人たちが盛り上がってるとこすみません。でも本当に引っかかったことなので、書いておきます。

警察官を目指す優等生で田舎のぼんぼんのハムスター(♂)がトランスジェンダーの熊とコンビを組んで国家権力による不正を暴き、やがて精神的にも成長していくバディものの長編アニメとか見られるような日は、この先果たして来るのか知らん。

#映画 #ララランド #ズートピア #アカデミー賞




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