きみへの愛してるはこんなアイシテル(創作妄想?君と出会った自叙伝)

父の母の曽祖父は大陸で女衒だった。名を則末ほんの助。抱えていた女性からも子分からも人望厚く、経済的にも成功者だったそうで。祖父は大戦時、朝鮮半島で警察署長だった。父はそもそも四国で今で言うところの半グレの走り、当時で言うところのインテリヤクザで一匹狼だった。今だと非難紛々、炎上ネタにもなりかねない(^_^;)そもそもほんの助さんの話は父から伝え聞いた話なのだがそれを僕に聞かせてくれたのは、そんな破天荒な人が親族にいたんだって言う父自身への免罪符だったのかもなんだけど。まあそれはともかく。
戦後、本土に引き上げてきた祖父母と父は親族会議で蜜柑畑を譲り受ける。また祖母はタバコ屋←許認可制で、引揚者や戦傷遺族には優先的に許認可が与えられたらしい。
をやってたんだ。
そんなある日のこと、パチンコ屋の景品交換所を探していたのが、当時伸び盛りの裏稼業の方。他勢力との縄張り争いもあり、中々場所貸してくれるところがなかったそうな。
窮したそのお方は、ふと立ち寄ったタバコ屋で「お婆さん、このあたりでどっか景品交換所やってくれるところないかなぁ」と聞いたところ「ここ使えばエエよ」と祖母。
これが後に〇〇←歓楽街で有名な中国地方の某地方都市をイッテに仕切る大親分と父との縁の始まり。
それから暫く経って、父から聞いたか僕が忘れたかどうだったか・・・経緯は記憶が曖昧だけど、親族感の揉め事から祖父母は〇〇を出ていかざるを得なくなる。父はそうならないように抵抗して棲家を守ろうとしたのだそうな。まあやったことは今で言うところの専有や・・・って今でも存続してるのだろうか?本人の知るところ知らないところは別にして、実際問題、某親分の後ろ盾も恐らくあったんだろうけど、もともと気も強く、喧嘩も強かったらしい父は、まあわかりやすく言うと今で言うところのヤンキー?◎高だか○高だかの総番だったらしい。ちなみにもう一方並び立ってた◎高だか○高の総番が今は亡き映画監督さんだったらしい・・・ん?確かそう聞いたような。
そんな事情で裏稼業に首突っ込んだ父は、肩で風切って○○の街歩ってたんだと。
そんな父と母の出会いなんだが、実は二人が出会った時に父には既に結婚誓った女性が存在してたそうな。母に言わせると別れると言っていた、父に言わせると最初から別れるつもりはなかったと、まあこの辺は俗に言わなくても水掛論。そんな二人の今で言うところの不倫、聞こえよく言うと婚外恋愛の末僕が生まれた。当時は男尊女卑の時代
英雄色を好むなんてトンデモな格言が幅効かせてて、金と力があれば・・・・ん?今も変わらんのか?そこは。と言う事で父と母の出会いなのだが地方都市のナイトクラブでホステスをしていた母を父が口説いたらしい。そしてそんな父と母の男と女の事情を知ったのは僕が小学生の時。確か小学4年生だったかなぁ。
「ただいまぁ」って玄関の戸←ドアじゃなくて戸(苦笑)を開けると真っ暗な家の中、台所の奥の布団敷きっぱなしの部屋から聞こえる啜り泣き・・・ってホラーかよ(^_^;)そおおっと恐る恐る中に入った僕に
「あんたは妾の子なんだからねっ!」
といきなりのハードパンチ。
なんかよく意味わからなかったし、聞いた後で母の背中を抱いたのか、外に走りだしたのか、その後自分がどういう行動とったのか忘れたけど妙に冷めた気持ちだったことだけはハッキリ憶えてる。そんな父なのだけれどそもそも家にいることは少なかったかもしれないけど、僕に対しておおらかだったしなんかカッコよくも思ってた。
夜でも真っ黒なサングラス。
肩で風切って猫背で歩く。
時々こちらへお出でになる親分さんを迎えに行き、沢山の人がいる中で沢山の人にお辞儀される親分さんの隣に立つ父は、親分さんと話す時、敬語だったけど、へりくだる感じは全然なくて、すごく礼儀正しかった。
そして今思い出すと、親分さんへ敬愛のようなもの?を子供心に感じてたのか、とにかく無茶苦茶カッコ良くて・・・・
当時は子供だったせいか、よくわかってなかったんだと思うけど、ホテルの前に乗り付けた父の車の後ろには何台もの黒塗りの車。
親分さんを父?あれ?母だったかな?
が確かエスコートして降りると
沢山のいかつい方々が深々とお辞儀して「お疲れ様ですっ」・・・・・・
って言ってたような←うる覚え
数人の方が寄ってきて
「おお〜、この子があの時の子かなあ⤵」
って僕の頭ポンポン(^_^;)
「大きゅうなったなあ」と。
その父なんだが、母に公言したとおり他に本妻さん、そしてその本妻さんとの間には僕と同じ年の娘さんがいたのである。僕が子供のときの母の口癖、僕が父にどう思われるか・・・って言うより良く思ってほしい、良く思われたいって気持ちが痛いほど伝わってたな。アレはやっぱ本妻さんとのバチバチだったんだと思う(汗)認知認知ってのも漏れ聞いた二人の会話で記憶があるな 。そう言えば僕の姓が変わったのは高校卒業時だったナ。んで大分割愛、端折るけど・・・
あっ!僕は カタギです(汗)
反社とはつながりないですから(^_^;)
端折る前にコレ書いとくの忘れた(^_^;)僕の気持ちの落としどころ。んでそんな大人の事情を幼くして聞いたオイラは単純に父と母っていう見方できなくて、子供のころから父と母でも同じ人間。そして一人の男と一人の女って考え方してた。人によっては卑下や批判の対象になるかもな父と母かもしれないけど、そんな当たり前のことに気づかせてくれたことに今は感謝してる。でもやっぱ母は病んでたけどね(^_^;)ところでその父がどんな男だったか。父の口癖。逃げるな、責任、それは自分に酔ってるだけだ、見える部分は氷山の一角、洞察力を身に着けろ、儂が言ってる事は生きるための知恵じゃ、そして・・・
わしの寂しさがお前にもいつかわかる日が来るわい ・・・
一歩間違うと碇ゲンドウ(苦笑)そんな父だったけど。ところで母以外の父に関わる女性、つまり本妻さんなのだが、ある時期膠原病で
に罹患してしまう。そう言えば娘、世間的に言えば僕の腹違いの妹も存在するのだが、その子は心臓に病気抱えて手術が必要と言うこちらはこちらでまるでドラマを地で行くような状況。おまけに時期的に本妻さんの発病と父の仕事人という歴史に照らすならば、事業失敗に重なるという、まるで父の人生からすれば殆ど天罰というか身から出た錆のオンパレードのような時期があった。当時僕は高校生 。ある日、学校休んで一緒に釣り行くかって突然声を掛けてきた父。思い出すとあの時がきっとそういった時期だった。父の車、車内は甘い缶ピーの香り。なんにも大した事話さず現地まで行って、二人で無言で一緒に釣り糸垂れた。そう言えば父の話は若い僕にはわかりにくかった。回りくどい?外堀から埋めてくるような?時として逃げ場のない追い詰めるような話し方だったし、最後には
「お前はそれだけ温い世界で生きとるいうことジャっ」
とか。それでいながら男として感じる凄みもそこはかとなく伝わって来た記憶も。でそんなファザコンだった僕だけどそのメッキが剥がれた・・・っていうか等身大の父と言うか別の意味の凄いの見せられたのが父が亡くなるまでの数年間。実は節操のない下半身・・・しかも情や責任という錦の御旗の元、切ること、つまり相手を楽にさせてあげるなんて考えは皆無でそんな当時としては無責任の誹りを受けるような答えの出し方をしない出来ない、とんでも親父は、自身の会社の秘書までも毒牙にかけていたのであった(苦笑)で、それを僕が知ったのは父がっって、あーめんどくさい!以後は親父ね(^_^;)親父が肺気胸・・・でぶっ倒れて精子のあっ、違った、生死の境彷徨った時だった。こりゃすごかった(^_^;)愛する人を巡る三人の女の取っ組み合い。しかも病院で衆人環視の元。髪の毛毟るわ、引っ掻くは殴るわ蹴るわ!キャットファイトファン垂涎の絵面(^_^;)でその時オイラは初めて腹違いの妹とご対面。可愛かったです。当然ながら憎悪の感情なんかあるわけもなく、妙な感慨、現実感のない、まるで赤い絆←知らねーヨ(^_^;)な気持ちだったことだけ憶えてるなァ(^o^)でそっから親父、一回回復して八面六臂の大活躍でした。死期を悟ったのか、死を意識したのか、兄妹の交流のセッティング、本妻、壱号機、弐号機のメインテナンス←ホントエヴァみたいだ(汗)に酸素ボンベ担いで車で行ったり来たり。ことの良し悪しはともかく、正直、スゲー、真似できねーって感じだった。でそんな親父は何故かその場その場にオイラを立ち会わせた。そしてオイラと妹への口癖。「お前らに何かを残してやりたい・・・」ある日僕は言った。
「別に俺いなくていいじゃんか。それにそこまで無理しなくていいじゃんか」
そしたら親父
「お前には俺の生き様を見届ける義務がある」
って。その時は思った。
なんの義務じゃーって。
ただ当時の僕、格好いいことも言ってたんだよネ。
「なにか残してやりたいって」親父に
「大丈夫だよ親父。残してくれたものはココにある」
って自分の胸叩いてた(涙)実はちょうどその頃、僕はナッちゃんと出会った。当時の僕は最初の奥さんと結婚7年目。現在も存命だから前妻とのことは割愛するけど子供もいた。ナッちゃんも結婚してて10年目?だったかなぁ。子供いた。ところで青年期の僕は何不自由なくてまあ満足なケッコン生活だった。刺激はなかったかもだけど←前妻にはちゃんと謝罪済。でナッちゃんに初めて出会った時ドッカーンって雷に打たれたみたいなドキドキキュ〜ン❤彼女はとにかく笑顔がキュートでいつでも笑顔。で好奇心の塊の僕は、知りたくなっちゃったんだナ、なんでいっつも笑顔なのか。だってそもそも捻くれてる僕は人間、喜怒哀楽があるのが当たり前って思ってたから、いっつも笑顔なわけないじゃんって。知りたい知りたい、なんでなんでって聞いていって初めて心の中の秘密の小箱、開いてくれたんだ。で彼女、DVだった。離婚考えてた。でもね、彼女が白馬の王子様待ってって僕のこと好きになったんだって勘違いしないように。これ聞き出すだけでどれだけ大変だったか。それ話してくれて、でも話そうとしないでいてくれて心底嬉しかった。で、そもそもがんな親父の子である僕は気が付くと後先なんか考えず恋のドツボにハマっていったんだよな(苦笑)そっからも今振り返ると不思議なんだけど無意識に親父のマネして八面六臂の真似事。仕事、ナッちゃん、家庭、親父の病院や外出時の付添。あっ、これ時効だろうから言うけど、当時の足は399ccのモーターバイク 。チョッチ手入れてて、180km6速ピークで吹け切るように減速比いじってたんだけど一般道でいっつもその速度域で走ってた。加速の鬼ネ。で20歳くらいまでレースの真似事←ちゃんとクローズドネ だったんで自信もあったけど、やっぱなんかあったら一般道だとアウトなのも知ってて。だからコチトラ命かけとんじゃい、取れるもんなら神さん、取ってみんかい!なんて思って寸暇を惜しんですっ飛んでたのは若気の至り(汗)親父から聞いた言葉なんだけど「恋愛で痴情のもつれから刃傷沙汰になることなんてゴチャんとある」
「もし彼女とセックスしてる現場に踏み込まれたら、バレてても「寒いからお互いの身体を温め合ってただけだ」
って言え」「相手の気持ちになって物事を考えろ!」ってのも言われたな。あとマーフィーの法則も読まされた。昔からあんま自己啓発系好きじゃないんだけどね。何年か前だっけ?昼顔ってのもナッちゃんと見たけど、アレはないわと。本気で成就させたいんだったらホント覚悟必要だし強い意思も必要。くっつく相手も分かれる相手も守って、それで初めて成就するんじゃないかよってナッちゃんと顔見合わせて頷き合いながら話したなあ(笑)まあ一回しか経験してないし、あくまで極々私的な経験談だけど振り返るとそう思う。でも批判される前に言っておくと僕は前妻とナッちゃんを両天秤にかけたトンデモ野郎です・・・と今のうちにカミングアウトしておく(苦笑)そして・・・そんな日々が1年ほど続いたかな。ある雪の日、あっけなく親父が逝った。僕は戸籍上は認知されてるから出るっちゃ出れたんだけど、本妻さんと妹への義理立てから葬儀には出席せず。でも妹が計らってくれて、寝ずの番じゃなかったのはなんでかわからんが、深夜誰もいない時に兄さんだけ入れるよって手引してくれた。くれたってへりくだる事ないけど、母親にこれ以上騒動起こすなって言ってたし、その手前、僕だけ死に化粧見るって言えなかったし、だから母親には内緒でね。日が昇るくらいまで一緒にいたかなぁ。不思議と涙出なかった。泣こうとしたんだけどね。あー、俺情(じょう)ないんかなって思った。普通じゃない、異常なんじゃないのって本気で思ったな。でその後。これがもう絵に書いたような泥試合(苦笑)遺産まで取り合うのはリアルでSとかMっ気強い人だとたまりません(苦笑)結局母親は当然ながら僕が引き取って←たちの悪いことに専業主婦でした
財産は放棄。でもそこに至るまで、つまり財産放棄するまですったもんだあるわけで、そこで僕の悩みや考え、行動に徹底的に付き合ってくれたのがナッちゃんだった。だって前妻
「あなたの思うようにすれば」
で終わりだったんだもん。ただ前妻も決して悪気があったんじゃなくて日常の積み重ねでの感覚の麻痺があったんだと思う 。そんな日々の中僕とナッちゃんの恋愛は結論が出たんだ。親父の真似は僕には決してできない。自分は自分。親父が出せなかった答え、いつかわかるわいって言った親父の心の声、見届ける義務、男と女の関係、愛って何?愛し合うって何?夫婦って何?僕が子供のときから見てきたもの、親父からバトンタッチされたこと、僕に託された遺産・・・だからネ、ナッちゃん

夏子、僕の好きはネ

アイシテルはね

僕だけの好きじゃなくて

親父から2世代かけて捧げる

大好きです

愛してる

なんだよ。

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