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2世紀を跨ぐ智恵を専門的考察で読み解く "ヒルティの幸福論3/4"

時代を超えた幸福はあるのか?

 19世紀末のスイス、アルプスの麓で生まれたカール・ヒルティの幸福論。その思想は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて起こった技術革新と産業の大変革期である第二次産業革命の渦中で生まれました。蒸気機関や電気の発明により、人々の生活は大きく変わり、都市化が進む一方で、伝統的な価値観が揺らぎ始めていた時代です。今日までは、そんな「幸福論」を肯定的に見てきましたが、課題はないのか?また幸福それ自体の意味をもっと深掘りが可能か?という視点で今日は考えていきます。(いつもより専門的内容を含みますが、難しくはないので是非読んでみてください!)

カール・ヒルティと同じ時代を生きたフリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」(彼の著書「悦ばしき知識」で述べられた有名な言葉で、伝統的な宗教的価値観の崩壊を象徴しています)と宣言し、カール・マルクスが資本主義社会の矛盾を指摘する中、ヒルティは「仕事」「愛」「信仰」という3つの柱を軸に、普遍的な幸福の在り方を模索しました。そんな時代と現代には近い課題感があると考えられます。

個人主義の光と影 - ヒルティ思想の現代的課題

 ヒルティの思想には、個人の内面的成長を重視する傾向が見られます。これは、当時の18世紀末から19世紀にかけてヨーロッパで起こった芸術・思想運動であるロマン主義の影響を受けているとも言えるでしょう。ゲーテやシラーに代表されるドイツ・ロマン主義は、個人の感情や主観的体験を重視し、それが後のキルケゴールやニーチェなどの実存主義哲学(20世紀に発展した、個人の主体性や自由を重視する哲学の一派)にも影響を与えました。

しかし、この個人主義的アプローチは、現代社会においてはいくつかの課題を提起します。例えば、貧困や差別といった社会構造の問題を、個人の努力だけで解決できるのかという疑問が生じます。19世紀末から20世紀初頭にかけて台頭した社会主義思想や、その後のジョン・ロールズによる正義論(1971年に発表された著書で、公平な社会制度の原理を論じたもの)、アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチ(人間の福祉を評価する新しい枠組み)などは、まさにこの個人主義の限界に対する反応とも言えるでしょう。その点で、ヒルティの幸福論はどのように考えられるでしょうか?

また、個人の幸福追求が、コミュニティや社会全体の幸福とどのように調和するのかについての考察も必要です。アリストテレスの「ニコマコス倫理学」(彼の倫理学に関する主要な著作)に遡る「善き生」の概念や、ジョン・スチュアート・ミルの功利主義思想(最大多数の最大幸福を目指す倫理学・政治哲学の立場)など、個人と社会の幸福のバランスを探る試みは古くから存在しました。現代では、マイケル・サンデルの「公共哲学」(政治や社会の問題を哲学的に考察する学問分野)や、マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチ(上述のアマルティア・センと同様の研究者です)などが、この問題に新たな視点を提供しています。今日まで振り返ってきた、ヒルティが述べる愛や仕事に関しての概念も通ずる点が多い点です。

文化の壁を超えて

 ヒルティの思想には、明らかに西洋的、特にキリスト教的な世界観が反映されています。これは、19世紀のヨーロッパという文脈では自然なことでした。しかし、エドワード・サイードの「オリエンタリズム」(西洋による東洋の表象を批判的に分析した概念)批判以降、西洋中心主義的な思想の限界が指摘されるようになりました。

例えば、仏教における「悟り」の概念や、儒教の「中庸」の思想など、東洋の幸福観との比較検討が必要かもしれません。大乗仏教の開祖とされる龍樹の「中論」(大乗仏教の重要な論書)や、孔子の「論語」(孔子とその弟子たちの言行録)に見られる幸福観は、西洋的な個人主義とは異なる視点を提供しています。今回はアラン、ヒルティ、ラッセルのそれぞれの幸福論を触れていっていますが、東洋における考え方にも今後触れていきます。

また、90年以降から日本でも特に注目を集めていたブータンの「国民総幸福量(GNH)」(経済指標以外の要素も含めた国民の幸福度を測る指標)の概念なども、幸福を多面的に捉える上で参考になるでしょう。GNHは、経済的指標だけでなく、文化の保護や環境保全なども幸福の要素として含んでおり、西洋的な進歩主義とは異なる価値観を反映しています。(現在は、世界情勢による観光客の減少、インフレなどの経済状況からGNHも低迷してしまっています。経済と幸福の関係性についてもいずれ取り扱いたい論点です。)

このように、ヒルティの幸福論を現代に活かすためには、その普遍的価値を認めつつも、異なる文化的背景や現代社会の複雑性を考慮に入れた再解釈が必要となるのです。日本に生きる私たちからすると少し遠い話に感じるかもしれませんが、"余白"という観点が世界共通的な概念として存在する以上、私たちはこの観点でも掘り下げて考えていこうと思います。

働き方改革時代におけるヒルティの仕事論

 ヒルティは仕事を幸福の重要な要素と捉えていましたが、この労働観は現代社会においてどのように解釈できるでしょうか。マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年に発表された著作で、近代資本主義の発展と宗教倫理の関係を論じたもの)で指摘したように、近代西洋の労働観には宗教的な影響が色濃く反映されています。

産業革命後の工場労働とは異なり、現代では知識労働やクリエイティブワークが増加しています。ピーター・ドラッカーが提唱した「知識労働者」(主に頭脳を使って働く人々)の概念や、リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス」論(創造的な仕事に従事する人々が経済発展の原動力になるという理論)は、現代の労働の質的変化を示しています。また、テレワークやギグワークなど、働き方の多様化も進んでいます。

一方で、過労死や「ブラック企業」の問題など、労働と幸福の関係は必ずしも単純ではありません。カール・マルクスの疎外論(労働者が自らの労働の結果から疎外される状況を分析した理論)や、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」(現代社会における自由と安全の葛藤を論じた著作)で指摘されているように、労働が人間性を損なう可能性も常に存在します。

ワーク・ライフ・バランス(仕事と私生活の調和)や、近年注目を集める「イクメン」(育児に積極的に関わる男性)の概念など、仕事以外の生活領域の重要性も再認識されています。これらは、ハンナ・アーレントが「活動的生」と「観想的生」の調和の必要性を説いたこと(彼女の著書「人間の条件」で展開された思想)と通じる部分があるでしょう。ヒルティが唱える仕事に対しての在り方も、もっと抽象度を上げて捉えることが重要になると言えるかもしれません。

テクノロジーと幸福

 ヒルティの時代には想像もできなかったであろう、現代特有の課題もあります。例えば、SNSやスマートフォンへの依存が人間関係や自己実現にどのような影響を与えるのか。シャリー・タークルの「つながっているのに孤独」(デジタル時代のコミュニケーションの paradox を指摘した著作)という指摘は、デジタル時代の人間関係の複雑さを示唆しています。

AIの発達により、人間らしい仕事や役割がどのように変化していくのか。レイ・カーツワイルの「シンギュラリティ」(技術が人間の知能を超える転換点)の概念や、ニック・ボストロムの「スーパーインテリジェンス」論(人間の知能を大きく超えるAIの可能性と課題を論じたもの)は、AIと人間の関係性に新たな視点を提供しています。

デジタルデトックス(デジタル機器の使用を意図的に控える実践)やマインドフルネス(今この瞬間の体験に意図的に意識を向ける心理療法の一つ)の実践など、テクノロジーとの付き合い方を模索する動きも見られます。ジョン・カバットジンのマインドフルネス瞑想法や、ティク・ナット・ハンの「今ここ」の瞑想は、テクノロジーに囲まれた現代人に心の静けさを取り戻す方法を提示しています。

また、「テクノロジーヒューマニズム」(技術の発展と人間性の調和を目指す思想)という概念も提唱されており、技術と人間性の調和を図る試みも行われています。ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」(人類の未来を予測した著作)や、ケヴィン・ケリーの「テクニウム」(技術の進化を生物の進化になぞらえた概念)は、テクノロジーと人間性の共進化の可能性を示唆しています。AIが爆発的進化を遂げているこの数年でまた違う観点も考えられそうですが、大筋の技術が指し示す未来には違和感がないと思います。

これらの現代的な課題は、ヒルティの幸福論を再解釈し、拡張する必要性を示しています。テクノロジーがもたらす便益と課題を適切に評価し、人間の幸福にとって本質的なものは何かを改めて問い直す必要があるでしょう。


文化的アイデンティティの揺らぎと新たな連帯

 また日本においてもグローバル化の進展は、文化的アイデンティティの揺らぎや経済格差の拡大など、新たな課題をもたらしています。アンソニー・ギデンズの「脱埋め込み」の概念(近代社会において社会関係が伝統的な文脈から切り離される現象を指す社会学的概念)や、ウルリヒ・ベックの「リスク社会」論(現代社会が直面する新たなリスクの性質を分析した社会理論)は、グローバル化がもたらす不確実性を指摘しています。

一方で、インターネットを通じた国境を越えたつながりも生まれています。マニュエル・カステルの「ネットワーク社会」論(情報技術の発達によって形成される新たな社会構造を分析した理論)は、今や少し古くもありますが根底ではこうした新たな社会構造を分析しており、その本質はグローバル化とテクノロジーの進化の側面を上手く捉えています。

「グローカル」という言葉に象徴されるように、グローバルな視点とローカルな実践の融合が求められています。ロラン・ロバートソンが提唱したこの概念は、地域の文化や伝統を守りつつ、グローバルな課題に取り組む姿勢を示しています。

また、SDGs(持続可能な開発目標:2015年に国連で採択された、2030年までに達成すべき17の国際目標)のような国際的な取り組みも、グローバル時代の幸福を考える上で重要な視点を提供しています。アマルティア・センやマーサ・ヌスバウムらが提唱した「人間開発」の概念(経済成長だけでなく、人々の選択肢を拡大することを重視する開発アプローチ)は、経済成長だけでなく、人々の選択肢を拡大することを重視しており、SDGsの理念的基盤となっています。ヒルティが生きた時代から20世紀を経て、時代は大きく変わりました。今日は専門的な視点を多く取り入れていますが、そんな中でもこれまで述べたヒルティの幸福論がぶれることなく大切であることが段々と実感を帯びてきているのではないでしょうか。

サステナビリティの視点から

 環境問題と幸福の関係も、現代社会における重要な課題です。個人の幸福追求が環境破壊や資源の枯渇につながる可能性や、現在の幸福追求が将来世代の幸福を犠牲にする可能性について、真剣に考える必要があります。

ハンス・ヨナスの「責任原理」(未来の世代に対する現在の世代の倫理的責任を論じた哲学的概念)や、アル・ゴアの「不都合な真実」(地球温暖化の危機を訴えた著作及びドキュメンタリー映画)は、環境問題に対する世代間倫理の重要性を指摘しています。また、エコロジー経済学の創始者であるハーマン・デイリーの「定常状態経済」の概念(経済成長に依存しない持続可能な経済システムを提唱した理論)は、経済成長と環境保護の両立可能性を示唆しています。経済論は様々な立場で論じられますが、あくまで一例として示しておきます。

「エシカル消費」(環境や社会に配慮した消費行動)や「サーキュラーエコノミー」(資源の再利用を前提とした経済システム)など、環境に配慮しつつ幸福を追求する新たな概念も登場しています。エレン・マッカーサー財団が提唱するサーキュラーエコノミーの概念は、資源の再利用を前提とした経済システムの構築を目指しています。

また、自然との共生を重視する「バイオフィリア」の考え方なども、注目を集めています。エドワード・O・ウィルソンが提唱したこの概念は、人間が本能的に自然とのつながりを求めているという仮説に基づいています。私も、バイオフィリアの考え方は環世界的で非常に好意的に捉えています。最近は自然そのものが権利を持つケースも増えてきましたね。

ヒルティ思想の現代的再解釈に向けて

 ヒルティの幸福論は、その時代の制約や限界を持ちつつも、今なお私たちに多くの示唆を与えてくれることに焦点を当て、本日は執筆してきました(いつもより書きすぎてしまいました…)。現代社会の複雑性や多様性を考慮すると、より包括的で柔軟な幸福論の構築が必要なことも伝わったのではないでしょうか。

ポスト・ヒューマニズム(人間中心主義を超えた新たな哲学的立場)やトランス・ヒューマニズム(科学技術による人間の能力拡張を肯定的に捉える思想)など、人間の概念そのものが問い直される現代において、幸福の意味も再考を迫られています。ドナ・ハラウェイの「サイボーグ・フェミニズム」(テクノロジーと人間の融合を通じたジェンダー概念の再構築を提唱した理論)や、ニック・ボストロムの「人間拡張」の概念(技術による人間の能力向上の可能性と課題を論じたもの)は、テクノロジーと人間性の融合がもたらす新たな幸福の可能性を示唆しています。下記はほぼSFとして捉えていましたが、昨今の中国テックの発展やCotomoなどのサービスを見ていると現実味を帯びてきたようにも思えます。

一方で、マルティン・ハイデガーの「技術への問い」(技術の本質と人間存在の関係を問う哲学的考察)や、ジャック・エリュールの「技術社会」批判(技術が社会を支配する状況を批判的に分析した理論)は、テクノロジーへの過度の依存がもたらす危険性を警告しています。

これらの現代的な思想や課題を踏まえつつ、ヒルティの幸福論をどのように再解釈し、発展させていくべきか。それは、私たち一人一人に課せられた哲学的な課題であり、同時に実践的な生き方の問題ではないでしょうか。

 明日は、今日の批判的かつ包括的な考察を踏まえ、21世紀にふさわしい新たな「ヒルティの幸福論」の可能性について探求していきます。ヒルティの知恵を基盤としつつ、現代の科学的知見や多様な文化的視点を取り入れた、より豊かな幸福論の構築を一緒に考えていきましょう。

 今日はかなり専門的な用語や背景を多く解説してみました。しかし、私たちは単なる理論的な探求をしたい訳ではありません。私たち一人一人の日々の生活に根ざした、実践的な知識の追求と、何でも調べさえすれば分かる現代で、知識がなくともオープンな対話ができる場を作っていければと考えています。コーチングのお申し込みも増えてきました。"余白"を掲げながらも、(掲げられているからこそ)私たちの可処分時間も限られているので、興味がある方は是非一度下記も訪れてみてください。


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