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退屈な時間と生き方に対する哲学 "セネカ「人生(生)の短さについて」1/2"

あと少しで人生が終わるとしたら

 古代ローマの哲学者セネカの著作「人生(生)の短さについて(De Brevitate Vitae)」は、時間の使い方に関する深い洞察が行われています。2,000年以上も前の哲学者が述べた考えですが、これは前回の「暇と退屈の倫理学」において考えてきた概念にも通ずる非常に本質的な点が多くあります。それは人生の時間をどう使うか?という視点です。(詳細は下記マガジンをご覧ください。)

セネカの哲学は、時間の本質とその有効な使い方について考えさせられ、現代においてもなお多くの教訓を与えてくれます。今回は、そんなセネカが「人生の短さ」というテーマで時間という概念をどのように捉えているのか、そして彼の哲学的視点から導き出される教訓について探求し、「余白」の本質について考えていきましょう。

人生の短さの定義

 セネカは、人が「人生が短い」と感じるのは、私たちが時間を無駄にしているからだと主張します。彼は、人生そのものは実際の時間的には充分に長いが、その時間の使い方自体が問題であると説きます。セネカの言葉「人生は短くない。私たちがそれを短くしているのだ。」は、時間の浪費が人生の短さを感じさせる根本的な原因であることを強調する言葉です。

セネカの洞察は、彼自身の生活経験とストア派の哲学に基づいています。ストア派の哲学は、心の平静(アタラクシア)と徳(アレテー)を追求することに重点を置きます。この哲学的枠組みの中で、セネカは時間の価値とその使い方について深く考察しました。(ストア派などの哲学の学派についても少しずつ触れていきます。)

時間の浪費とその原因

 セネカは、多くの人々が社会的なプレッシャーや期待に応えるために、無意味な活動に時間を浪費していると考えました。無駄な会話や無意味な社交、過度な娯楽など、これらの活動は私たちの貴重な時間を消費し、本当に重要なことに集中する妨げとなります。日常の中においてどのような基準で無駄であるかそうでないかを判断することは困難ですが、前回の「暇と退屈の倫理学」の観点から言えば、まさに「退屈」をしている時間、暇を潰すための行為と考えると繋がる点があるかもしれません。

セネカはまた、注意が分散されることも時間の浪費を招く要因であると述べています。多くのことに同時に取り組むことで、真に重要なことに集中できず、結果として時間が無駄に過ぎてしまうのです。彼は、「注意の分散は時間の浪費をもたらす」と警告しています。これらはセネカが生きていた2,000年以上も前に言われていたことです。今あなたの身の回りを見渡してみて、一体どれだけの情報があるでしょうか。セネカが生きていた時代よりも圧倒的に情報量が多い現代において、注意の分散はより意識しなければいけない問題になっているでしょう。スマホがなければ私たちはどう休日を過ごし、PCがなければ私たちはどのように仕事を行うことができるでしょうか。

さらに、未来への過度な執着も時間の浪費を引き起こすとセネカは述べています。人々が未来のことを考えすぎるあまり、現在の瞬間を見逃してしまうことを批判します。「過去を悔やみ、未来を心配することで、現在を見失う」と述べ、現在に集中することの重要性を強調します。

時間というものをどう捉えるか

 セネカの時間に対する考え方は、ストア派の基本的な教義に深く根ざしています。ストア派は、外的な出来事に動じない内的な平静と、徳に基づく生き方を重視します。セネカは、時間の使い方がこの心の平静と直接関係していると考えました。無駄な活動や未来への過度な執着は、心の平静を乱し、幸福を遠ざける原因となります。

セネカはまた、時間の有限性を受け入れることの重要性を説いています。彼は、「人生の短さを嘆くのではなく、与えられた時間を如何に使うかが重要である」と述べています。時間の有限性を認識し、その上で有意義に過ごすことが、真の幸福への道であると考えました。後何年生きるかという長さ自体に注目するのではなく、今この瞬間をどう生きるかという思考の転換です。

セネカの時間の価値観は、現代においても有効です。私たちはしばしば、未来の成功や達成に焦点を当て、現在の時間を見過ごしがちです。未来にあるものを信じて時間を使いながら、その未来が本当に訪れるのかは非常に不確実です。明日やりたいと思ったことが明日もできるのか、未来の成功が果たして本当に今の「退屈」な時間を過ごす理由になるのか、一度立ち止まって考える必要があるかもしれません。セネカの教えは、現在の瞬間を大切にし、その時間を有意義に過ごすことの重要性を強調している点で、マインドフルネスの考え方にも非常に近いものがあるでしょう。

2,000年前の哲学者から私たちへの警告

 セネカは、私たちが時間を無駄にし続けると、気づいたときには手遅れになってしまうと述べています。人生の終わりが近づいたときに初めて、私たちは時間の貴重さを理解しますが、その時点ではもはや取り戻すことはできません。人生の終わりを意識できればまだしも、唐突に人生の終わりを迎えてしまうこともあります。

セネカの警告は時間の価値を理解し、それを有効に活用することの重要性を強調しながら、誰もが頭のどこかでは分かっていることを改めて言葉にしてくれています。彼の言葉は、2,000年後の現代の私たちに対しても、時間の浪費を避け、意義ある活動に集中することの重要性を訴えかけ続けています。

人生の「短さ」をどう捉えますか?

 今日はセネカの「人生の短さについて」の基本的な主張について探求しました。セネカは、人生が短いと感じるのは、私たちが時間を無駄にしているからだと主張し、無駄な活動、分散された注意、未来への執着がその原因であると指摘します。彼は、時間の浪費を避け、現在に集中することの重要性を強調しています。言葉にすると非常に当たり前のように思えることではありますが、ではそれが今できているのか?それを常に自分に問い続けてくれる為の本であり、言葉であるかもしれません。

次回は、そんなセネカが何度も「短い」と主張する人生において、どのような時間の使い方が必要なのか、セネカの視点で提案されている人生において重要な時間の過ごし方についてさらに詳しく見ていきます。この機会をきっかけとして、「短い」人生を如何に「長く」していくのかという二元論だけではなく、あなたにとって「退屈ではない」時間の使い方はどんなものなのか、そしてセネカの指摘通り「人生を短くしている」と感じているなら、今ここから何ができるのか?そんなお手伝いをできればと思います。

短い人生の中で如何に余白を楽しむか

 情報が溢れ、資本主義の中であらゆるものが相対的に効率化され続ける現代において、最後に「退屈ではない」余白を意識したのはいつですか。 そんな"余白"に少しでも違和感を感じた方はyohakuの公式HPも是非ご覧ください。


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