![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/94870943/rectangle_large_type_2_4acf5a384da93cb14c7bd45606df14b9.jpeg?width=800)
偏差値40以下の落ちこぼれが、1400名超のサロンを設立するまで
こんにちは、ノグチデザインの野口と申します。
さも成功者、みたいな面をしたタイトルでスミマセン。。。
一切成功者ではないのですが、2020年6月ごろからTwitterで発信をはじめ、ありがたいことにフォロワーさんが4.5万人、運営しているオンラインサロンメンバーが1400名を突破しました。
年始で過去を振り返り、急に自分語りしたくなる衝動に襲われたため、デザイナーを志してからのこの10年ほどをひたすら書き殴っていきたいと思います。
特に誰かのタメになるように、と思い書くモノではないので、ひたすら駄文長文で申し訳ありません。
いきなりですがざっくりと私の経歴は下記の通りです。
デザイン専門2年
アルバイト1年
広告代理店8年
フリーランス1年
法人設立2年目
この順番で細部を書き殴っていきます。
✅デザイナーを志したきっかけ
約15年前まで遡ります。高校生の頃は偏差値40以下の雑魚高校に惰性で通っていました。
ろくに学校もいかず、留年ギリギリまであと何日休めるかを計算してまでも、ひたすら家でゴロゴロしたりゲーセンに通ったりする、と圧倒的に自堕落な日々を過ごしていました。
そして高校3年生の中ごろ、その頃はこたつでぬくぬくしながら、「恋ノチカラ」というデザイン事務所が舞台の昼ドラ再放送を見ていました。小田和正が歌う「キラキラ」が主題歌のドラマです。
そのドラマに特にとてもハマっていたというわけではなかったのですが、作中でデザイナーの役:堤真一が自分がデザインした缶コーヒーのパッケージを見てドヤ顔で言い放った、「これカッコいいだろ」というセリフに圧倒的に痺れ、
ちょうど進路を決める時期で何も考えてなかった私は「デザイナーかっけえ・・」と感化され、その日にデザイン専門学校のパンフレットを取り寄せていました。
缶コーヒーをデザインするには、とググった結果、「工業デザイナー」というワードも出てきて、そのためには工業大学に進んだ方が良いかも、という情報も得たのですが、
当然今から勉強をする気はサラサラないので、楽に入れそうな専門学校を一瞬で選び取りました。
今思い返すと呆れるほどしょうもない理由ですが、これが私がデザイナーを志したきっかけです。
元々デザイナーに憧れていたとか、デザインが好きだったとか、絵が上手かったとかは一切なく(美術は通知表万年2)、その場のノリで今後の人生を決めてしまうのだから、振り返ると恐ろしいものです。
そこから15年近く経った今でもデザインはあまり好きでも得意でもないので、適正から言うと恐らくこのときの選択は誤っていたと思います。
✅専門学校1年目
イザ意気込んでデザイナーになろうと決意したものの、「専門学校に行けば全部教えてくれるっしょ!」と、入学する前から事前に何か学ぼう、なんて気は一切起きません。
唯一入学面接のために、「自画像を書いて持ってきてください」という課題が専門学校から出たので、小学校2年生レベルの画力で描いた似顔絵を30分だけ描くことだけはしました。
このレベルでも入学できるのだから、恐らく課題提出は形式上で、恐らく金さえ払えば誰でも入れるところなのだな、と嫌なことを考えつつ、専門学校生活がスタートしました。
私が通っていた学校は、特にグラフィックデザインを重点に学ぶというものではなく、
・デッサン
・Webデザイン
・プログラミング
・動画編集
・写真撮影 etc…
デザインに必要そうな技能をまんべんなく学ぼう、といったコンセプトです。
元々モチベーションもそこまで高くなかった私は、ほぼ全ての授業が苦痛過ぎて、あろうことか専門学校でも遅刻・欠席を繰り返していきます。
そして痛々しいことに、なぜか自分にはデザインのセンスが元からある、と思い込んでおり、4原則など一切無視したセンス(笑)全開のビビッドな色使いをしたデザインを生み出すと、
辛口な先生に「野口、頭ラリってんの?」と言われ衝撃を受け、ふてくされ、さらに学習意欲を失っていきました。
しかしその中でも唯一Illustratorを用いた名刺やポスターのデザイン制作だけにはほんのわずかに楽しさを感じ、これなら仕事にしたいかも、と考えはじめます。
✅専門学校2年目
小・中・高とひたすら落ちこぼれだった私は、専門学校でも順当に落ちこぼれ組に属すことに成功します。
授業や課題も真摯に取り組んでこなかったので、2年目になってもマトモなデザインは生み出せず。
あげく卒業制作までもサボり、2年間をほぼ無駄に過ごします。
習得できたスキルは、ほとんどIllustrator・Photoshopの基本操作だけです。
当然就職先も見つからず途方に暮れていましたが、唯一社内のチラシ・ポスターなどを制作する、というインハウスデザイナーのアルバイトに受かります。(時給900円)(電車で片道2時間)
✅アルバイト1年目
「インハウスデザイナー」というのはざっくり、「自社の制作物を社内で制作する」デザイナーのことです。
詳細はボカすのですが、携帯販売ショップの店内に貼ってある「乗り換え0円!」みたいなポスターや、サンプリングチラシ(街で配るポケットティッシュの中に入っている小さなチラシ)を制作するのが主な仕事です。
アルバイト・社内制作ということもあり業務環境は非常にホワイトで、9時出社18時退社が厳守されている職場です。
専門学校時代にわずかに楽しさを覚えたIllustratorを使う仕事だったということもあり、薄給なもののこんな落ちこぼれを拾ってもらって。。と感謝しつつ、日々をそれなりに楽しく過ごしていました。
そんな調子で半年以上が過ぎ、ふと「このままで良いのか?」と疑問が浮かびます。
というのも職場での環境は、
・高いクオリティが全く求められない
・上司が本職のデザイナーではない
・多少のミスなども社内なので許される
・複数店舗を束ねる本社勤務で、各店の幹部や店長などがほとんどで、圧倒的年下の私はひたすら甘やかされ続ける
という、ありがたいことに非常に働きやすいものの、デザイナーとしてスキルアップを観点に見たときにはかなり生ぬるい環境でした。
雇用形態もアルバイトということもあってこのままではダメだと思い、上司に2つ要望を出してみることにします。
1.社外のデザイン案件を受注してもらって制作させてもらえないか
2.正社員にしてもらえないか
1つ目の社外案件を獲得するという部分については、労力やリスクが高い割に利益が薄いということで却下。今思えば完全に自己都合すぎるので、そんなの勝手に自分でやってくれ..と思われるのは当たり前ですね。。。
2つ目の正社員に昇格の件は、バイトとして特に優れた働きをしていたわけでもなかったのでこれも却下。
ただ「携帯販売の資格」(どんな資格か詳細は忘れてしまったのですが。。)を取得すれば、販売員として正社員雇用は検討する、との提案をもらいます。
一瞬はこのありがたい提案に揺らいだのですが、せっかく専門学校を卒業した身としてやはり今後もデザイナーとして活動していきたいと頂いた提案を辞退し、デザイナーとしてよりスキルアップできる職場への就職を決意します。
✅広告代理店1年目
アルバイトで制作させてもらった実績をポートフォリオとして使えたというのもあり、応募2〜3社目で広告代理店への就職が決まりました。
「成長に応じて無理なくお仕事を振っていきます」の一文、正社員雇用の条件は非常に魅力的で、
採用が決まった際にはここから8年の地獄が始まるとも知らずに飛び跳ねて喜びました。
「大変だった」の一言では言い尽くせないほどブラックだった代理店時代ですが、この8年間が間違いなく今の私のデザイナーとしてのスキルを形作っているので、振り返ると英断だったと思いますし、拾って頂いた会社には非常に感謝しています。
当時の会社としての構成は、
・デザイナー5名
・営業10名
くらいの割合だったと思います。
社長が営業上がりだったということもあり、発言力としては営業の方がかなり高い環境です。
ウキウキ気分で入社した私を待ち受けていたのは、圧倒的スキル不足故の「洗礼」でした。
「仕事でき無さ過ぎ 本当に専門行ったの?」
「お前に仕事振りたくない」
「中途入社なんだから即戦力にならなきゃ雇った意味ない」
「(同僚に)これ見て!どうやったらこんなダサいの作れんだろね!?(笑)」
私のスキル不足、要領の悪さが原因とはいえ、物凄い暴言を浴びせられる日々で、日々急速に精神が病んでいきます。
それでもせっかく正社員として拾ってもらえたんだから、と辞職は考えませんでした。
なんとか折れずに働き続ける原動力になったのは、「先輩の優しさ」と「負けず嫌い精神」でした。
仕事ができない私に暴言を浴びせてくる先輩がいる一方、こっそり優しく接して下さる方も数名おり、その方々の存在が大きな心の支えになりました。その方々とは退職した今も親交があり、本当に感謝しています。
入社してから1年くらいは本当に毎日なにかしら営業・上司に怒鳴られる日々が続いていたので、いつしか目標は「どうやったら怒られないようにするか」というものになっていました。
怒られてしまう主な原因は、
⭕️デザインがダサい
ほとんどこれ一択です。
「ダサい」と指摘されるときも、これこれがこうだからダサくなっている、のように丁寧に教えてくれるわけもなく。ただ「ダサすぎ」「全然ダメ」のように具体性は全くなく怒り狂っていて聞けるという雰囲気でもないので、直接聞くという解決法はナシ。
しかも全員がひたすら忙しく直接誰かに教われる環境ではなかったので、自己解決するしかありませんでした。
ただ先輩方は素晴らしいデザインを作っていて、怒られている気配はなかったので、「先輩と同じか少し劣るくらいのクオリティを作れれば怒られないだろう」という結論に至ります。
幸いにも共有サーバーから先輩が作ったデザインのイラレデータを引っ張り出せる環境だったので、仕事が終わった深夜の時間帯でイラレデータをダウンロードし、
文字のサイズは何ptなのか、余白は何mm空いているのか、時には良い感じのメインタイトルのサブタイトルのバランスはこれか!と文字組みのパターンを自分なりにストックしたりしつつ、分解しながらひたすら研究していきます。
そういった試行錯誤を繰り返して半年ほど経過したころ、「おっ、やっと良い感じのデザイン作れるようになってきたな!」と肯定の言葉をもらえるようになってきました。
一度コツを掴んでからはだいぶ怒られることも減り、「怒られないように」の目標は1年ほどでおおよそ達成することができます。
✅広告代理店2年目〜8年目
怒られなくなると同時にスキルが上がり社内の立場もほんのわずかに向上したので、職場にいることがあまり苦痛でなくなってきます。
労働時間は朝9時〜深夜24時が平均、休日出勤は当たり前と超過労ではあるのですが、認められるようになった楽しさの方がわずかに上回りそこまで苦痛という感じではありません。
そんな軌道に乗ってきた中のある日、社長から呼び出しを受け、
「大口クライアント(仮にA社とします)さんの専属担当になってみない?」と打診を受けます。
A社さんは一社のみで自社の売り上げの3〜4分の1ほどを占める非常に大口のお客様で、元々は尊敬していた先輩デザイナーさんが専属担当をしていました。
私も会社名だけは知っていたものの、「自分が関われるのは5年とか経ったころかな」とかなり遠い存在として認識していた中の抜擢でした。
怒られていた頃の自分からは想像できないほどの飛躍で驚きと嬉しさに溢れつつ、自分なんかに努めるか、と不安も抱きながら了承をします。
前任の先輩はそのA社さんの専属担当で、リソースほぼ全てをその会社に当てていました。
前任先輩が非常に優秀なデザイナーだったこともあり、そこまで大変そうなお客様の印象は受けなかったのですが、本当の地獄がここから始まります。
大口クライアントA社は、チラシなどの制作物を作ったら必ず社長が内容を確認し、了承をもらえないと印刷に入ることができない、といった体制なのですが、とにかく社長がこだわりが強い方で。
一目でダメだと思ったら、印刷して持ってきたデザイン見本をその場でビリビリに破いてしまうような超絶厳しい方です。
根本的には優しい方で悪く言うつもりは全くないのですが、一社で大きい会社に育てあげてきた手腕もあるのかとにかくこだわりが強く、この社長のお墨付きをどうもらうか、と日々頭を悩ませる日々がはじまります。
ひどいときの当時の1日のスケジュールはざっくりこんな感じです。
04:00〜 出社
09:00 打ち合わせ
12:00 社長確認、修正指示
18:00 社長確認、チラシ内容NG作り直し
19:00〜04:00 作り直し作業
4:00〜08:00 仮眠
09:00 打ち合わせ〜
みたいなスケジュールを週1〜2くらいで交えた日々が6〜7年ほど続きました。
チラシは基本週1回発行なので、月曜日に初回打ち合わせをして金曜日に入稿、のループが発狂するほど永遠に続きます。
A社の社長はデザイン的にそれっぽいものが見れれば満足、というわけではなく、時に病的と思えるほど細部まで全体のロジックが徹底されていないとダメ、という方で、
今まで「とりあえず良い感じのデザインが作れればOK」と思っていた私は圧倒的に打ちのめされながら成長していきます。
かなり無理な働き方をしましたが、仕事ができない私を見放さず、担当として採用し続けてくださったA社社長には非常に感謝しています。
A社社長はデザイナーというわけではないので、振り返るとぶっちゃけ何これ?みたいなちぐはぐな指示なども非常に多かったのですが、この「ロジックを徹底する」という考え方は、今のデザイナー人生にも大きな影響を受けています。
A社の担当になりがむしゃらに働き続け、会社員デザイナー歴は8年目ほどになったある日、「ここ3年ほどほとんど成長できていない」ということに気づきます。
それに気づいたのは過去の作品を見返していたときで、「惰性で日々を過ごしていた」ことに少しの危機感を覚えます。
当時給料は手取り25万円ほどで、デザイナーとしてとても悪いというわけではなかったと思うのですが、結婚して新居を購入したということもあり今のままではいけないと思いつつ、結局何も行動を起こせない日々が続き。
そんな危機感も薄れたある日、昼休みになんとなくYouTubeを見ていたところ、ふと講演家の「鴨頭嘉人さん」という方の動画に辿り着き、【行動できないあなたへ】みたいな動画内容に劇的に感化され、急に少し前に抱いた危機感が急激に復活していきます。
そこからIT企業社長の「マコなり社長」、マコなり社長とコラボ動画を出していたインフルエンサーの「マナブ」さんに出会い、「マナブ信者」になっていきます。
マナブさんは主にフリーランス独立のノウハウなどを発信していて、当時300本近くあった動画を全て視聴するくらいにはファンになっていました。
そこから動画内容に感化されフリーランス志し、会社に内緒でこっそり副業をはじめたり、無理矢理定時で帰るようになったりと、独立に向けて少しずつ行動をはじめます。
YouTuberのマナブさんはあまりにも価値観などが好きすぎて信者化が進み、見ていた動画の影響もあって「何かお返しできないか」と思い、
サンプルのYouTubeサムネデザインを勝手に作ってDMで送ったところ返信をいただき、Twitterでも紹介して頂きました。
![](https://assets.st-note.com/img/1672828207891-jMaJvSrBMa.jpg?width=800)
そこからTwitterの発信活動をはじめ、「サムネの作り方」みたいな講座を投稿してみたところ、マナブさんの紹介もあって一気にフォロワーさんが4000人ほどまで増え、そこからTwitter発信も本格的に開始していきます。
副業ではなかなか結果が出せない日々が続きます。会社では営業活動や値付けなどの経験がほとんどなかったというのも影響し、半年ほどココナラなどで活動して月3万円ほどしか稼ぐことができませんでした。
それでも5万円・7万円・15万円と少しずつ仕事と収入は増えていき、「これくらい一人で稼げれば独立できるかも」と自信がつき始めます。
そこでこっそり副業をしていたことを会社に打ち明け独立したいとの旨を伝えると、「一人で食って行くのはキツい」「考え直して」とありがたいことに半年ほど引き留めをいただくものの、なんとか独立することができます。
✅フリーランス1年目〜法人設立
副業時代の活動のおかげで独立後もそれなりに順調に進み、なんとか生活が安定してきます。
そんな中Twitterでのデザイン発信も細々と続けていたところ、DMでデザインの質問がかなり頻繁に届くようになりました。
せっかく連絡をいただいたから、とひたすら無償で答える日々が続いていたのですが、質問回答にかなり追われることで収益がかなり下がっていることに気づきました。
このまま無料で活動するのは身が持たない、と質問回答の需要を何か収益に繋げられないかと考えたところ、その頃流行り出していたオンラインサロンをやってみようか、と思いつきます。
Twitterでサロン募集を試しにかけてみたところすぐに30〜40名ほどの方が集まっていただき、はじめは無料で運営していたのですが、内容の充実に比例して3000円・5000円・8000円と値上げしつつ、少しずつ規模を拡大していきます。
ここで「デザインを教える」ことの需要が意外と多いことに気づき、クライアントワークもそこそこに、Twitter発信とサロン運営に重点を置いていった結果、2年半経過する今ではありがたいことに1400名超が在籍するまで大きいサロンになりました。
売り上げもかなり伸びてきたので法人化もし、今に至る感じです。
後半執筆に飽きてきたので失速しつつも、デザイナーを志してからの経緯はこんな感じです。
長文・駄文をここまでご覧いただき、本当にありがとうございました。
何の参考になるかわからないのですが、どういう人間がデザイナーになるのかというサンプルになればと。。🙇♂️
もし何かご質問などありましたらコメント頂ければ気づき次第回答させていただきますので、お気軽に投稿下さいませ!m(__)m
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?