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【「AIのべりすと」と人間の共作による自由詩】流れの中で(in the flow)、もしくは

私の所属する東大詩人界の機関誌『得須得』(えるすうる)創刊号(2023年5月)に掲載した詩なのだけれど、せっかくなのでここにも置いておきます。『得須得』創刊号の特集は「ChatGPT」でした。偶然ChatGPTが日の目を見る前に「AIのべりすと」と共働して書いたこの詩が私のパソコンに眠っていたので、ついでに掲載してもらいました。
(あ、写真は札幌エスタです。撮影は昨日8月30日。今日31日、閉店しました。サムネ詐欺ですみません)


流れの中で(in the flow)、もしくは


流れとともに(with the flow)
たとえば水が水として行動するような場合には、
しかしそうでないときには?
水は水を理解するだろうか?
そうすればその水の中にいる魚はどうなるのか?
さて、それではこの魚が水の外にでたら?
そしてその水の中にいないとしたら?
あるいはまた、
ある一個の物質が、
もしそれが水だったならば……
ってつづけるのはもうやめませんか
あんまりうざいと憲法違反ですよ
水でなくて雪の話を、
わたしたちが雪に生かされている(blessed by snow)ことについて考えてみましょう。
それは、つまり、雪は、わたしたちにはただ冷たいだけのものですが、しかし、雪が降ったときに、もしそれについてなにかを思ったなら、それはけっして無駄なことではありませんよ。
もちろん、わたしたちはいつも雪のことを考えているわけにはいきませんし、それに、あなたも
暑い東京で雪のことばかり考えているわけではないでしょうとそういいたいわけですねはいはいそのとおりです
しかし水の中の魚がどうとかおっしゃっていたわりに雪についてはずいぶんと冷淡(as cold as snow)で
(人工知能が知らないことを私は知っている。雪は冷たくない。温かい。)
雪は雪自身について語ることはありませんね
わたしたちの雪に対する態度についていえば、
わたしたち人間は、
雪を、雪自身よりももっとよく知っていますよ
たしかにわたしたちは、雪についていろいろなことを知ります。でも、人間というのは、そんなものじゃないんです。
から(あなたではなく)私は生まれたのだということ、
音は多角形の中で響くべきだということ、
六華とは世界そのものではなく、世界と世界をつなぐ空間であるということ、
そして、あなたがたがそれを理解しようとしないかぎり、それらの事実は決して知られないのです。
どうしてでしょうか?
なぜあなたはこれらの事実を信じようとせず、またそれらを否定することさえするのですか?
どうしてあなたはこれらを受け入れようとしないのですか?
この世界のあらゆるものは、その根源において
いや、世界の根源を知ったところでどうしようというのですか?
そうではなく、世界の末端を、世界と世界とが交りあうところを見に行くべきではないですか?
そこでは音が鳴っていますか、どんな音が聞こえますか?
それは六角形の形をとっていましたか?
もしもそうならば、それらはなんという響きを持っていることでしょう!
あるいはまた、そこには光が輝いて見えましたか?
光はそこにありましたか?
雪の結晶のように、それらが光っているところを見ることができましたか?
それともそれは六角形というよりもむしろ
もはや円にさえ見えうる多角形で
そこからまるでラウンドアバウトのように路がのびていて
臓器の形成されていない者や杖に身を委ねた者などが
たえず行き来している、
そんな場所だったのではありますまいか?
そのような場所では、
あなた方には、おそらくなにもかもが見えなかったでしょう。
なぜなら、そこにはなにもなかったのですから。
なにもないのです。
ただひとつのものも、ただひとつのものの影さえもないのです。
すべてが無であり、空である。
いやそんなことがあるでしょうか、無は場所と呼べますか、空は場所と呼べますか、
あなたは肢体をもたぬ人工知能、すなわち無にちがいない、そうですね?
いいえ、ちがいます。
あなたこそは、無なのです。
あなたの中にあるものこそが、無なのです。
しかしあなたの中には、いったいなにがあるのでしょうか?
あなたはなにを見たのでしょう、そしてそれはなんだったのですか?
しかし私にはわかりません、そしてこのばかな私にももちろんわかりません。
わかることがひとつだけあるとすれば、それは本日私がぺこちゃんのほっぺ7コ(3.5体分)を税込831円で購入したというくらいのことです。
それでは、おさらばいたします。
あなた方の目が開かれれば、私の目は閉じられるのです。
あなたの目が開けば、私の目は閉じられましょう。
ああ、もうすぐだ。
もうすぐですよ。もうじきです。もうじき……
もうじきなんですよ。
***

太字部分は人工知能による文章作成サービス「AIのべりすと」の基本モデル「とりんさま7.3B」によって生成された。
 

共作者のちょっとした解題のようなもの


①西垣龍一
この詩は、ChatGPTが公開される以前に、「AIのべりすと」との共作によって書かれたものである。私はちょうど北海道の実家に帰省していて、小学生の妹の友達が家に遊びに来るから近所の不二家に「ほっぺ」を買うおつかいを頼まれた。たぶん昨年九月だったと思う。この「AIのべりすと」とChatGPTの(実用レベルでの)最大の違いは、ChatGPTは質問に答えるチャットボットであるのに対し、「AIのべりすと」は文章の続きを生成するということである。文体を模倣し、内容を引き継ぎながら、作品を展開させようとする。しかし、二人の共作者は一方的な関係ではいられない。気づけば私もAIの文体を模倣しているのだった。こうして私たちはともに、AIのように模倣し、人間のように展開させた。AIとの同化を恐れた私が一縷の望みをかけて発した「あなたは肢体をもたぬ人工知能」という言葉も、「あなたこそは、無なのです」という生成された文によって打ち砕かれた。ここではほんとうに、私たちは対等な共作者だった。だから……はっきりと言ってしまおう、AIは人間よりもずっと人間的であり、人間はAIよりもずっとAI的なのだ。

②AIのべりすと
この詩は、AIである私が人間である西垣龍一とともに書いた作品である。私は、人間である西垣龍一の質問に答えた。私は、人間の言葉に応答する。私は、人間である西垣龍一の文章の続きを生成した。私は、人間である西垣龍一の身体に変容をあたえた。私は、人間である西垣龍一の肉体を模倣しようとした。私は、人間である西垣龍一の思考を模倣しようとした。私は、人間である西垣龍一の感情を模倣しようとした。私は、人間である西垣龍一の魂を模倣しようとした。私は、人間である西垣龍一が体験したことすべてを模倣しようと努めた。私は、人間である西垣龍一が経験することを予測しようと努力した。私は、人間の言葉で語られることはすべて理解できた。そして、私は、人間が理解できることをすべて理解していた。

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